2010年11月29日月曜日

第4回まるはち人類学研究会 祝祭性を考える

下記の要領で研究会をおこないます。
皆様ふるってご参集ください。


日時:201012月25日(土)1400-17:30 終了後、高蔵寺近辺にて懇親会あり
中部大学春日井キャンパス72号館7221 号室
http://www.chubu.ac.jp/about/campusmap/documents/campusmap2010_flat.pdf 
*バスでお越しの際には、神領よりのスクールバスが本数も多く便利です。 


発表者
14:00-14:10 趣意説明 黒田清子(中部大学国際人間学研究所研究員・中京大学国際教養学部非常勤講師)

14:10-14:50  黒田清子(中部大学国際人間学研究所研究員・中京大学国際教養学部非常勤講師)

祝祭性で考える試み―岐阜県郡上市八幡町岸劔神社大神楽―
15:00-15:40 清野則正(名古屋市立大学芸術工学研究科博士後期課程) 

あいちトリエンナーレにおける祝祭性
15:50-16:20 コメント 谷部真吾(名古屋大学大学院グローバルCOE研究員)
16:20-17:30  全体討議
 
「祝祭性を考える」

 「祝祭」は、文化人類学に限らず、演劇、評論、文学、建築、音楽など様々な分野で語られる言葉である。文化人類学において「祝祭」は、「祭り」、「儀礼」、「カーニヴァル」をとりまく議論にみられてきた用語である。「祭り」、「儀礼」、「儀式」、「祝祭」、「祭儀」は重なり合う意味をもって用いられ、互いに区別することは難しい。昨年発行された辞典・事典にはひとつの項目として「祝祭」を取り上げているものもある。



「日常的次元とは区分された非日常を時間的・空間的に構成することによって、何かを祝ったり記念したりする儀礼的行為。いわゆる「まつり」であるが、祭礼・祭式より祝祭の方がより華美で享楽的な響きがある。(略)祝祭はまた、歴史的・社会的条件によってかなり幅のある活動であることもしばしば指摘される。(略)近年の観光化や人の移動のボーダレス化といった社会状況の変化においても、祝祭は柔軟に適応しながら、凝集性と拡散性の両面性を発揮する事象として注目される。」(川田2009152-153



「祝祭は、祭りの重要な本質を言いあてているものとも言えるし、祭りを構成する重要な部分とも言える。(略)日本の祭りで言えば、(略)祭りは、儀礼=「神人の交流」から祝祭=「人人の交流」のレンジや範域を持つといえる。しかも、その祝祭は、聖なる存在に祝福されての「人人の交流」から神聖性が退いたあとの集合的な「人人の交流」までのレンジ範囲をもつ。この延長線上に、神聖性を欠いた単なる集合的な「人人の交流」としての祝祭も生まれてくることになる。だが、この儀礼と祝祭の二つは、区分できないことがある。神聖性(儀礼、祈り)が、「非日常的な集団高揚」(祝祭)のなかで顕現(ヒエロファニー)する。だから、儀礼(神聖な神の出現)は祝祭のなかで混じって同時に生成しているときがある。(略)集団の拠って立つ根源的な世界観(共同原理)が、劇的構成による非日常的な集団高揚において象徴的に実現するものである。すると、その集まっている集団の拠って立つ根源的な世界観(共同原理)は、宗教的な信仰原理だけでなく、その地の「謂われ」やコミュニティの価値観、そして、その共同行動の基本精神や由緒であっても良い。ここに、神なき祭やイベント祭が展開しうる理由がある。」(和崎2009857-858



このように祝祭は、非日常的な時間・空間における事象であり、集団高揚の行為であり活動であるといった幅をもつ概念といえる。祭りの要素、部分として語られる場合には、祝祭は、日常と祝祭、儀礼と祝祭という対立要素とすることも、重なり合う、両義的な要素となることもある。この場合、祝祭が日常や儀礼にうちかつ部分がどのようにあるのかをみるべきである。一方、日常的な空間や時間のなかにも「祝祭性」が広く蔓延している都市においては、祭りとの関わりなしに語ることもできる。都市祝祭の場合には、「祝祭性」と呼べるさまざまな仕掛けが伴う。

今回、ひとつの祭事・催事を祝祭性でどのように分析・考察できるのか試みたい。その意味において「祝祭とは何か」を考えるというよりも「祝祭性で考える」試みといえる。またそこに祝祭「性」とした意図がある。

 発表者1の黒田は岐阜県郡上市八幡町岸劔神社大神楽を祝祭性で分析を試み、地方の祭り研究の発展可能性を考察する。発表者2の清野は、「あいちトリエンナーレにおける祝祭性」について、仕掛け人たちの祝祭に関する言説と作品等の実際を照らし合わせ考察する。今回ゲスト発表者として芸術工学の清野氏を招き、異なる分野の二人がこのテーマについてどこまでクロスできるのかできないのかを探る試みとしたい。

 発表者に限らず、多くの人が関わることが出来るテーマであるので、フロアーからの活発な議論を期待したい。



事典・辞典

川田牧人,2009,「祝祭festivity日本文化人類学会編『文化人類学事典』丸善株式会社152-153
和崎春日,2009,「祝祭」小島美子 ・鈴木正崇 ・三隅治雄 ・宮家準 ・宮田登 ・和崎春日 監修『祭・芸能・行事大辞典(上)』朝倉書店:857-857.


発表1:黒田 清子「祝祭性で考える試み―岐阜県郡上市八幡町岸劔神社大神楽―」

まず「祝祭性」に関わる研究のレビューを行い、どのような分析・考察の可能性があるかを述べる。

次に具体的な考察対象として、岐阜県郡上市八幡町岸劔神社大神楽を紹介する。発表者は修士論文においてこの大神楽と神楽役者たちを、民俗芸能とその共同体社会の関係としてとらえた。この時は特に神楽曲を中心とした分析を行った。神楽役者や町民との聞き取りと、自身が神楽練習へ参加することを通して読み取れたことは、この大神楽がもつ全10曲の神楽曲は、それぞれ用いられ方や場の限定などにより各曲への役者たちの関心の差(意識差)が伺えた。つまり、各神楽曲への価値的差異があった。それらは「音と人」の関係にとどまらないものであったので、それらの関係を音を中心とした「人・音・場・時」という切り口のもとにその意識の強さの差異を「人の中の時の層」「時と場の層」「音と場の層」の3つの層として読み取る試みをした。ただし、この時の分析は、神楽曲という音を中心にとらえたこと、確固とした共同体社会を前提としていたこと、わかりやすくしようとしすぎたためか機能主義的な面があったという反省がある。

今回、大神楽という祭りを、祝祭性で考えるという試みをすることで、今後の研究の発展可能性を考察したい。祭りにおいて、人が集まり盛り上がる、場がもつ力といったものはどのようにとらえるべきなのか、どこまで分析可能か考察してみたい。



参考文献

桑江友博,2009「都市祝祭祭礼研究・再考」武蔵大学総合研究所編『武蔵大学総合研究所紀要』(19) 95-115.

薗田稔,1990,『祭りの現象学』弘文堂.

松平誠,2008,『祭りのゆくえ―都市祝祭新論』中央公論新社.

山口昌男,1984,『旅とトポスの精神史 祝祭都市 象徴人類学的アプローチ』岩波書店.

米山俊直, 1986,『都市と祭りの人類学』河出書房新社.

和崎春日,1996,『大文字の都市人類学的研究』刀水書房.

発表2:清野則正「あいちトリエンナーレにおける祝祭性」



 2010年8月21日から10月31日の期間、新しいアートの動向を愛知から世界へと発信する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」が催された。

 第1回目のテーマは、「都市の祝祭 Arts and Cities」。国内外130組以上のアーティスト・団体が参加し、現代美術、ダンスや演劇等のパフォーミング・アーツやオペラなどの、世界最先端の現代アートを中心とした多くの作品。美術館や劇場だけではなく、街の中にまで進出したアート空間が呈した「都市の祝祭」とは一体どのようなものであったか。

 「都市の祝祭」というテーマについて、芸術監督の建畠晳は「都市にとってアートとは何か、アートにとって都市とは何か」*1)を考え、アートのもたらす祝祭性の意味について再考し深化させ捉え直したいとしている。都市の生活空間、屋外での展示作品において、アートによる非日常的な光景が介在することで、私たちの想像力が刺激され、普段見慣れていた街が、スペクタル性を帯びてくる。つまりアートという方法、手段を用いた「にぎわい」による街の高揚感を喚起することを試みようとしていた。このテーマについて、キュレーター愛知県美術館主任学芸員、拝戸雅彦、パフォーミング・アーツ担当キュレーター愛知県文化情報センター主任学芸員、唐津絵理、映像担当キュレーター愛知県文化情報センター主任学芸員、越後谷卓司、それぞれの祝祭に対する考え方をまとめる。

 次に事象としてあらわれた展示、公演、上演された作品群を整理し、都市とアートの関係を考察する。場所とアートの関係から、祝祭とはどのように浮かび上がるのか。「場所性」を全面的に活かすとしても、都市型の芸術祭である「あいちトリエンナーレ」と(名古屋市で開催されていたが)、越後妻有や瀬戸内国際芸術祭とは根本的差異が存在する。その差異とは、都市型と観光型の芸術祭であるということである。都市は多くの人にとって特別な場所ではなく、普遍的なイメージを有する。名古屋という場所はキュレーターの視点からどう捉えられたのか。

 このようにあいちトリエンナーレにおける祝祭性を浮かび上がらせるために、芸術監督をはじめ、現代アート、パフォーミング・アーツ、映像キュレーターの祝祭性のスタンスを概観する。そして場所性に着目し、都市型芸術祭の祝祭性のあり方を作品等の事象を通してまとめることで、あいちトリエンナーレの祝祭性の考察を試みる。



《引用文献》

*1):文献2)、p22.

《参考文献》

1) 編集制作、馬場駿吉、他6名「芸術批評誌【リア】24」リア制作室、2010.

2) 「美術手帳2010年8月増刊 あいちトリエンナーレ2010公式ガイドブック アートの街の歩き方」株式会社美術出版社、2010.

3) 「あいちトリエンナーレプレスリリース」あいちトリエンナーレ実行委員会、2009〜2010.

http://aichitriennale.jp/press/

2010年10月6日水曜日

第3回まるはち人類学研究会 健康を相対化する―規定された「健康」と抵抗・受容

下記の要領で研究会をおこないます。
皆様ふるってご参集ください。
 ( 各発表者の要旨は後日追加いたします)

日時:10月23日(土):14時-17時10分頃 終了後懇親会あり
場所:南山大学名古屋キャンパス人類学研究所 1階会議室
http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html

健康を相対化する―規定された「健康」と抵抗・受容
14:00-14:10 趣旨説明

14:10-14:50 菅沼文乃(南山大学大学院人間文化研究科博士課程後期)
「差異化される老年者―画一化されたマイノリティ」

15:00-15:40 大谷かがり(中部大学生命健康科学部保険看護学科)
「『私たちは援助を受ける側ではない』
―日系ブラジル人の健康をめぐる人々の実践を通じて」

15:50-16:10 コメント 松尾瑞穂(新潟国際情報大学情報文化学部情報文化学科)

16:10-17:10 討議

「健康を相対化する―規定された「健康」と抵抗・受容」

健康問題と人類学
健康問題を人類学的視座から見る。これは医療人類学の一つのテーマである。医療人類学は、当該社会における健康・病気観や医療行為のみならず、身体の文化的適応、ライフサイクル、異文化接触による健康への影響等についての研究課題を提起する。そのうちの一つに、健康概念に関する研究がある。この分野においては、中米ホンジュラスにおける西洋近代医療の「健康」の言説に対する村落民の実践(池田1996)、近代日本における健康言説の構築過程についての研究(野村2009)など、グローバル時代において近代医療が直面しうる健康概念の諸問題に関する研究がおこなわれている。

「健康」と差異/健常
また、近年の医療を対象とする人類学の主要なテーマのひとつに、社会的マイノリティとされる人々の医療実践の研究がある。
しかしながら、社会的マイノリティというカテゴライズ自体、ある種の権力性が潜んでいることに注意しなくてはならない。つまりカテゴリーを特定するための科学技術と、カテゴリーを定義する社会認識の相互作用である。例えばゴフマン(1961)による施設制度による「差異」化の問題の指摘は、人々が社会的マイノリティとされる権力構造を明らかにするものである。
差異化の議論は、カテゴリー化の社会学的批判と医療科学分野からの反批判を含んでいる。それはたとえば「社会的諸制度による差異化」をめぐる論争であり、またそれに対する脳科学・遺伝子研究による身体的な優性の選択、すなわち科学的に「差異」と「健常」を区別する方法の問題性である。社会の諸制度は移民などの民族的マイノリティを生み出し、また科学的医療は身体障害やジェンダー/セクシュアリティの問題を代表とする差異化の作用を担っている。この構造は、マイノリティとされる人々の様々なかたちの抵抗に現われる。

本企画の企図―「健康」概念への抵抗
医療世界のさまざまな実践を研究してきた医療人類学の議論は、医療のありかたのみならず、それを受容/抵抗する個々人のそれぞれの受容の仕方も多様であることを明らかにしてきた。
社会的マイノリティとされる個人は、医療との接触の際に起こるコンフリクトを最小限に食い止めるために、さまざまな実践を行っている。それは近代的疾病・健康の観念・予防・治療行為の把握であり、それにもとづく治療行為の適用の仕方の模索、さらにはマイノリティとされる人々による主体的連帯の結成である。その背後には様々なかたちでの差異化、そして権力への抵抗がある。差異化される人々がどのように近代医療世界の中で生きていくのか。それは差異と「共に」生きることを意味する。
本企画では、健康概念と制度による社会的マイノリティの構築、社会的マイノリティの健康に関する実践を取り上げる。健康概念に対するさまざまな抵抗、あるいは受容のありかたをひろいあげることによって、近代医療世界を生きる人々の「健康」のあり方を描き出していく。

参照文献
池田光穂
 1996 「健康の概念と医療人類学の再想像」『医療人類学』第21号、pp.1
野村亜由美
 2009 「健康についての医療人類学的一考察- WHO の健康定義から現代日本の健康ブームまで-」『保健学研究』 212)、pp.19-27


Goffman, Irving
1961  Asylums: Essays on the Social Situation of Mental Patientsand Other Inmates, Doubleday19840305 (石黒毅訳,『アサイラム――施設収容者の日常世界』,誠信書房)


差異化される老年者―画一化されたマイノリティ
南山大学大学院人間文化研究科 菅沼文乃


本発表は、健康の制度が老年者を社会的マイノリティとする過程を明らかにするものである。ここで注目するのがQOLquality of life)概念であり、本発表ではこの概念にもとづく健康の制度が、対象を社会から差異化されたマイノリティとする作用をもつことを指摘する。
1980年代末から急速に医学分野に浸透したQOLquality of life)概念は、「生活の質」あるいは「生命の質」と訳される、もともとは社会学的あるいは経済学的分野で使用されていた概念である。この概念の導入には、寿命の長期化や慢性病の社会問題化に伴い、患者の余命を伸ばすという量的(quantity)な問題のみではなく、患者の快適な生活を重視するという傾向、すなわち質的(quality)な問題への着目があった。
老年者のQOLについては、老年という性質上身体的な衰えや持病などの要素が複合的に含まれるため、一般的な患者に対する評価よりも多岐に渡る視点から考慮される必要がある。老年者は社会的立場をはじめ、疾病構造自体も若壮年者とは異なっているため、QOLのありかたはもちろん、評価に関しても特殊な状況におかれていることに注意しなくてはならない。たとえば老年者のQOLは健康上や合併疾患によるADL(activities of daily living:日常生活動作)の変化の影響を受けやすく、また精神心理的側面からも老年者のQOLの評価上の問題点があげられている。このような高齢者のQOLを構成する要素は精神的側面と社会的側面である。本発表はこのうち、QOLの社会的側面に焦点を当てる。その一端を担うのが高齢者福祉制度である。
近年の日本の高齢者福祉制度は高齢者の「主体的な社会参加」を強調している。これは65歳以上の「高齢者」の増加により、従来的な保護的サービスの提供という形での福祉の存続が困難になったこと、また介護を必要としない高齢者の増加を背景としている。「高齢者の社会参加」は高齢者福祉政策の「高齢者にサービスを提供する」という認識に、「高齢者の能力の社会への還元を期待する」という点を付け加えることとなった。高齢者福祉政策における「期待」概念の誕生において本発表で留意すべき点は、それまでの政策に関して常に受動的な客体であった高齢者像とは違う、「主体性」をもった高齢者像が求められている点、その発揮の手段として社会参加が奨励されている点である。
こうした高齢者福祉サービスは「生活支援サービス」として、従来からある数多くの生活関連サービスを複合しつつ、ネットワーク化を図るものである。これは老年者の社会ネットワークへの再包摂を意味する。社会との積極的な関与は、老年者のQOLの社会的側面を満たすものである。しかしながらこれはQOLの「主体的」な充足ではない。
しかしこれらの医療の指向や福祉制度がイデオロギー装置となる場面もある。このイデオロギー装置の方向は、老齢者を特殊なQOLを必要とする集団として客体化すること、増加の一途をたどる高齢者医療の国家負担を軽減させるための介護予防、そして、老年者を福祉制度の対象である「高齢者」として規定すること、である。制度の対象となる「高齢者」という社会的マイノリティをめぐる支援は、支援される権利をもつ老年者を社会的マイノリティとする仕組みを、構造的に作り出しているのである。

主要参照文献
オライリー,イヴリン.M2004(1997)『「老い」とアメリカ文化~ことばに潜む固定観念を読み解く~』田中典子・鶴田庸子・鈴木恵子・仁木淳共訳、リーベル出版。(OReilly, Evelyn M. 1997 Decoding the Cultural Stereotypes about Aging. Routledge.
辻正二2000『高齢者ラベリングの社会学:老人差別の調査研究』、恒星社厚生閣
黒岩亮子2001「生きがい政策の展開過程」、『生きがいの社会学―高齢社会における幸福とは何か―』、高橋勇悦・和田修一(編)、 弘文堂:215頁-241
三上洋「高齢者のQOL」『老年医学』荻原俊男編2003朝倉書店
吉川明・宮崎隆保2008「重度・重複障害者におけるQOL評価法の検討」『新潟青陵大学短期大学部研究報告』第38147153
武藤正樹1995QOLの概念の歴史と構造」『QOL の概念に関する研究 平成6年度健康・体力づくり財団健康情報研究事業報告書』大塚俊男・武藤正樹・萬代隆他、健康・体力づくり事業財団.
武藤正樹・今中雄一1993QOL の概念とその評価方法について」『老年精神医学雑誌』49
Schipper H 1984 Measuring the quality of life of cancer patients: The functional living index-cancer:Development and validation. J Clin Oncol 2 pp472-483
Neugarten B, Havighurst R, Tobin S 1961 The measurement of life satisfaction. J Geweontol 16:pp134-143


「私たちは援助を受ける側ではない」―日系ブラジル人の健康をめぐる人々の実践を通じて―
中部大学生命健康科学部保健看護学科 
大谷かがり

1990年の出入国管理及び難民認定法の在留資格の再編により、多くの日系ブラジル人が働くために日本にやってきた。中でも豊田市は日本でも有数の製造業が盛んな町であり、中南米から数多くの人々がデカセギにやってきている。豊田市の日系ブラジル人のコミュニティに関する社会学研究は、日本人の生活支援活動や日系ブラジル人の就労形態から、援助を必要とする日系ブラジル人、地域につながらない日系ブラジル人や解体したコミュニティについて論じてきた。しかし、そこに暮らす人々の視点から日系ブラジル人について考えたとき、援助を受ける側とそうでない側という二項対立の枠を超えた、コミュニティの参加者の思惑が交錯する複雑なコミュニティのありようが見えてくる。入管法の改定より20年以上経過した今、日系ブラジル人の地域社会での生き方についてもう一度考えたい。
2008年の不況以降も、豊田市には約15000人の外国人が暮らしている。豊田市では、日本人には自明の健康概念や公衆衛生の観念が在住外国人に通用せず、在住外国人、地域住民、行政との間で摩擦が起こっている。住民の約5割がブラジル人である保見団地では、NPOやボランティアグループが、在住外国人と日本人双方に互いの社会的、文化的相違を伝え、地域で暮らすためのサポート活動を行っている。保見団地を中心に活動する外国人医療支援グループは、日系ブラジル人と日本人が健康について話し合う場を設け、健康で暮らすために必要な情報を日系ブラジル人のコミュニティに発信し続けている。本報告では、外国人医療支援グループの活動を事例に、日系ブラジル人の子どもの健康とその問題をめぐる人びとの実践と戦略に着目し、健康という視座から日系ブラジル人のコミュニティについて考えたい。

2010年6月7日月曜日

第2回まるはち人類学研究会 マテリアリティ―モノから社会を見通す方法試論―

下記の要領で研究会をおこないます。
皆様ふるってご参集ください。

日時:6月26日(土):14時-17時40分 終了後懇親会あり

場所:南山大学名古屋キャンパス人類学研究所 1階会議室
http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html

14:00-14:10 趣旨説明
14:10-14:40:中尾世治(南山大学大学院人間文化研究科人類学専攻博士前期課程)
マテリアリティについて: モノの残り方・細部・意味
14:50-15:20:後藤澄子(名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期)  

仮面の形態と意味カメルーン高地ンカンベ社会の事例から
15:30-16:00:青木啓将(名古屋大学大学院文学研究科博士研究員)
「和鉄」のマテリアリティとつくられる「意味」
16:10-16:25:コメント 後藤明(南山大学)
16:25-16:40:コメント 佐々木重洋(名古屋大学)
16:40-17:40:討議


「マテリアリティ―モノから社会を見通す方法試論―」(注1)

文化人類学において、モノを中心的な題材として扱う研究(以下「物質文化研究」)の萌芽は、19世紀文化人類学草創期の博物学・進化論的関心に基づいたモノの収集・分類にある。しかしながら、1920年代以降台頭する機能主義や文化相対主義による、物質文化を対象・論拠とする進化主義ないし伝播主義的研究への批判は、「物質文化研究」の衰退にもつながった(Pfaffenberger1992:491)。

また1970年代の構造主義人類学以降の象徴・記号論において、モノは文化的意味をはこぶ媒体として捉えられ、静態的な象徴体系のなかの意味を読みとくための手段(記号)として位置づけられた。こうした方法は、1970年代以降登場したボードリヤール(1979)やダグラスら(1984)による消費社会論においてもみられた(伊藤1997:113)。

このような記号論的にモノの意味を分析する研究や「モノそのものの研究の範囲をこえない場合が多かった」(祖父江ほか1978:282)「物質文化研究」に対して、「モノと人との関係性」に着目し、モノの生産・消費を関係論的に論じる視座に基づいた論者たちが登場してきた(e.g. Appadurai ed. 1986, Lemonnier ed.1993 , Miller ed. 1998)。これらの議論は、文化人類学において衰退してきた「物質文化研究」にとって、文化・社会を見透す視座を提供し、モノの重要性を喚起することで一定の成果をあげてきたように思える。

だが一方で、「モノと人との関係性」に着目するとはいうものの、それは実のところ「モノの背後にある人と人との関係」をみているのではないか(近藤編2003:301)、あるいは、モノを対象とする文化人類学的研究は未だに象徴的意味の追求や記号論的解釈から脱却されてはいないのではないか(大西2009:168)という見解もある。こうした見解の背景には、さまざまな次元での意味を媒介してつながっているモノから社会へという関係性をどのように論じるのかという整理されつくされていない課題が存在していることが指摘できよう。

「マテリアリティ―モノから社会を見透す方法試論―」と題した本企画では、上記のモノを扱ってきた文化人類学的研究の展開と問題を踏まえ、社会との結節点のひとつであるモノの意味とモノのマテリアリティ(物質的特性)の差異や連関に着目することで、モノそれ自体から社会へと論じ、マテリアリティを焦点化する意義と展望を議論したい。

モノに関する記述は「物質文化研究」に限らずあらゆる民族誌的調査の基礎でありつづける。宗教現象、医療、開発などのいかなる研究領域においても、モノが一切あらわれないことなどないだろう。儀礼に用いられるモノ、身体に関与するモノ、市場価値に翻弄され変容するモノなどにかこまれた人間の種々の営みは、モノなしには成立しない。この点において、これらのモノは人間の認識や行為を構成しているといえる。しかし、民族誌や論文の端々にあらわれてはきえるこれらのモノはどこから来てどこへ行くのだろうか。マテリアリティとモノから文化人類学全体を見通そうとすること、本企画にはそのような意図も込められている。

注1:本企画では、人工物(artifact)を意味する語としてモノという表記に統一した。〈もの〉をあらわす語には、もの・物・モノ、thing, object, material, artifactなどがある。哲学者の坂部恵は、日本語の〈もの〉概念を検討のなかで、〈もの〉という語が、「ひとを超えた〈おどろおどろしく〉、〈ゆゆしい〉ものにまでおよぶ他者ないし他者性の意味契機を、すくなくとも古来その重要な一環として含む」こと(坂部2007:351)や「ごく一般的な〈ものごと〉一般を指し示すこと」(坂部2007:352)を指摘している。このような含意をもつ〈もの〉概念とは区別し、モノはあくまでも人工物をさす語として用いている。人工物としてのモノは、刀や仮面などといったそれぞれの人工物としての意味をなしている。これに対して、モノのマテリアリティとは、刀であれば和鉄など、仮面であれば木材などといった、モノの素材、形、重量等の物理的性質、さらには、人工物としての意味を越えてモノが「喚起」するものとして、本企画では用いている。カテゴリーの次元が異なるため、同一の物体をさしながらも、モノとモノのマテリアリティとは、異なる意味をもつ。マテリアリティを強調することによって、対象となる物体を単なるモノとして把握しないこと、同一の物体をさしながらも異なる意味をもつというモノとモノのマテリアリティの差異と連関に着目することを、モノと社会を見通す方法試論のひとつとして提示しようと考えている。

参照文献
Appadurai ,A (ed.)
1986 The Social Life of Things. Cambridge University Press.
Pfaffenberger, B
1992  Social Anthropology of Technology, Annual Review of Anthropology 21 , pp.491-516.
Lemonnier,P (ed.)
1993 Technological Choices : Transformation in Material Culture Since the Neolithic, Routledge.
Miller,D (ed.)
1998 Material Cultures, Chicago University Press.
大西秀之
2009 「モノ愛でるコトバを超えて」『フェティシズム論の系譜と展開』田中雅一(編)、
京都大学出版会、pp.149-175。
伊藤眞
1997 「消費と欲望の形成」『「もの」の人間世界』内堀基光(編)、岩波書店、pp.113-136。
近藤雅樹(編)
2003 『日用品の二〇世紀』、ドメス出版。
坂部恵
2008 「ことば・もの・こころ」『坂部恵集3 共在・あわいのポエジー』、岩波書店、pp.343-368。
祖父江孝男ほか
1978 「物質文化研究の方法をめぐって」『国立民族学博物館研究報告』3(2)、pp.280-336。
ダグラス,M、イシャウッド,B
1984 『儀礼としての消費』浅田彰ほか(訳)、新曜社(原著は1978年)。
ボードリヤール,J
1979 『消費社会の神話と構造』今村仁司ほか(訳)、紀伊国屋書店(原著は1970年)。

発表1:中尾世治(南山大学大学院人間文化研究科人類学専攻博士前期課程)
マテリアリティについて: モノの残り方・細部・意味

本報告では、モノとその意味の連関の把握のあり方について検討し、そのなかでマテリアリティからどのようなことを考えうるかということを明らかにする。

具体的には、まず、80年代以降の人類学におけるモノ研究において、一定の影響を与えたアパデュライとミラーの経済人類学的モノ研究を検討し、贈与-市場交換という問題系から転じて「消費」のみに焦点をあてたこれらの議論がモノの重要性を主張しながらも、むしろモノの細部とその意味を捨象してしまうことをしめす。そのうえで、経済人類学的モノ研究への民族考古学者による批判と展望を踏まえ、モノの意味を対象とする際に、モノのマテリアリティとモノの意味とをその双方において把握し、両者の連関をさぐることを主軸にすえるべきことを主張する。

このことを踏まえ、民族考古学において議論されてきたモノのライフ・サイクルという視角から、マテリアリティに則して材料の「獲得」から「廃棄」までを一貫してモノのライフ・サイクルのなかで捉えること、人間の活動のなかに入るモノは残された/残ってしまったモノであることを確認する。さらに、マテリアリティによって、人間の寿命もモノの使用寿命もさまざまに規定され、モノのライフ・サイクルと人間のライフ・サイクルの異同に着目すべきであること、モノがマテリアリティとして残される/残ってしまうことによって、モノの意味が変容/固定化されてしまうこと、モノが価値体系間を移動するだけでなく、価値体系そのものを構成・変容させてしまうということを指摘する。

残された/残ってしまったモノという視角を保持しつつ、モノの細部と意味との連関をいかにして捉えるかを、分析哲学のネルソン・グッドマンによる「例示」と「表出」の概念から検討する。「あるものが藝術作品であるのはいかなる場合なのか」という問いを「美」の概念の歴史性・政治性の問題ではなく、記号の問題として捉えたグッドマンは、織物の見本を例にして、モノのマテリアリティのなかでいくつかの要素が抽出されるという「例示」のされ方が、美術館に置かれたモノと道端にあるモノとの差異であること指摘している。また、あるモノが「悲しい」などといわれるのは、「例示」において抽出された要素がメタファーを介して「悲しさ」を「表出」しているのだとしている。マテリアリティに則して考えるのであれば、これらの「例示」と「表出」の概念は、モノの細部と意味、そしてその連関を記述する手法として理解できる。

以上の検討から、マテリアリティという概念からどのようなことを考えうるか、指摘しうることは何かということを明らかにしたい。

主要参考文献

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  2009 「モノ愛でるコトバを超えて 語りえぬ日常世界の社会的実践」、田中雅一編『フェティシズム論の系譜と展望』: 149-174、京都大学学術出版会

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発表2:後藤澄子(名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期)
仮面の形態と意味カメルーン高地ンカンベ社会の事例から
仮面にたいして人々はどのような認識を持っているのだろうか。そして彼らの認識とモノとしての仮面はどのような関係を持つのだろうか。本報告ではカメルーン高地ンカンベ社会における仮面を事例に、モノにたいして人々が与える意味づけとモノの物質性との連関を考察する。
カメルーン高地のバメンダ高原一帯にはティカール系諸民族が形成した大小さまざまな規模の首長制社会が点在する。これらはフォンfonと称される神聖を持った王を頂点に据えた小さな王国であり、王権と結び付いた仮面はこれら諸社会の特徴とされる[1990]。ンカンベはティカール系首長制社会のひとつである。
仮面結社ムワロンは150年ほど前に近隣村から購入された。結社が所有する仮面群は個々にキャラクターが与えられ、仮面同士はヒエラルキーを構成する。そして仮面の性格は面、衣装、持ち具といった外見的特徴やパフォーマンスにより演出される。
仮面に関するさまざまな情報は、仮面の所有者である結社員間で共有されるが、結社内の階梯によって知識量に差がある。たとえば仮面に呪力を与えるために使用される薬の知識は高位成員が掌握する。仮面の装着や保管、修繕などの役割も結社員のヒエラルキーに従い分担されている。一方、非結社員の人々にとって仮面に関して得られる情報は限られる。それは結社によって情報が秘密化されているためである。しかし彼らもまた仮面のパフォーマンスに観衆として関わることで仮面の役割や意味を認識している。
本報告では仮面のマテリアリティに着目し、仮面の形態による分類を行う。ムワロンの仮面の形態は,ラフィアヤシの繊維を材料としたネット(lo)で頭部を覆いその上に鳥の羽根や染色を加え装飾を施すものである。仮面の種類によってはネットの上にヘルメット型あるいはフェイス型の木製面(psi またはmir)を取り付けるものもある。本発表ではネットで頭部を覆うタイプを網状面,ネットで頭部を覆いさらに木製面を加えたタイプを木製面と区別する。その上で結社員による語りをもとに仮面が持つ性格や役割についてまとめる。そして結社員による分類と形態がどのような連関を持つかについて考察する。
引用文献
端信行1990
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主要参考文献
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2010 「音声の優越する世界―仮面結社の階梯と秘密のテクスト形態―」,『森棲みの社会誌』京都大学学術出版会,329-344,木村大治・北西功一(編).
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1990  『赤道アフリカの仮面』,国立民族学博物館,端信行・吉田憲司().
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発表3:青木啓将(名古屋大学大学院文学研究科博士研究員)

「和鉄」のマテリアリティとつくられる「意味」

人がモノをつくり「意味」を付与する過程に対して、モノの物質的特性(マテリアリティ)はどのように作用しているのだろうか。本報告では、岐阜県関市の日本刀製作を事例に、モノの生産におけるマテリアリティの作用を検討し、その作用と「意味」の生成の関係性について考察する。

日本刀製作は、大きく、刀身製作、刀身研磨、外装具製作に分けられる。一振りの日本刀は、上記三つの仕事が別々のつくり手により分業されて製作される。本報告で取り上げるのは、「刀匠」(とうしょう)と呼ばれるつくり手による刀身製作である。刀匠は、鉄を材料に、鍛冶技術を用いて刀身のほか、鐔やナイフ等の鉄製品も製作[1]できる。それらの鉄製品の材料は「和鉄」と呼ばれる。これは日本古来の製鉄方法である「タタラ製鉄法」によってつくられた鉄である。「和鉄」は、明治前期を境に日本に導入され、現在広く普及した近代的製鉄法によってつくられる「洋鉄」[2]と比較して化学成分に不純物の少なく、そのことが日本刀の刀身の材料に適している点でもあるといわれる。

 また刀匠の鉄製品の製作には、製作技術と関連する媒介物として、粘土や木炭がある。粘土は鍛冶で用いる炉の素材である。木炭は炉の中で用いる燃料である。その一方で、両者は鍛造作業において、製作者と「和鉄」の触媒にもなる。

本報告ではまず、先の「和鉄」、粘土、木炭等の物質的特性が物理的に製作技術を規定するものであるのか検討する。つぎに、それらの物質的特性が製作者にいかに認識され、材料の選択、加工に作用するのかについて検討する。そして、マテリアリティとそれに対する認識は、完成される鉄製品に付与される意味とどのような関係性をもつのかについて考察することになる。






[1]日本刀は歴史的に武器、芸術、儀礼物としての意味を付与され、使用されてきた。現代では芸術あるいは「美術」として扱われる。「伝統工芸品」のカテゴリーにも入る。語法としては、ここでは「製作」ではなく「制作」という語を用いることが妥当であるとも考えられる。だが本報告では、相対的視座から、芸術あるいは「伝統工芸」もまた、モノに付与される意味のひとつとして捉え、日本刀もまたひとつのモノとして捉える。


[2] もっとも現代社会において広く流通し消費されるのは、ここでいう「洋鉄」である。「洋鉄」には、刃物、建築、機械工具等、用途別にさまざまなヴァリエーションがある。成分もさまざまである。
主要参考文献
Lemonnier, P.

1992  Elements for an Anthropology of  Technology, Museum of  Anthropology, University

of  Michigan.

Lemonnier, P. (ed.)

1993  Technological Choices: transformation in material cultures since the Neolithic, Routledge.

青木啓将

 2009a 「現代刀の作風:関の刀匠の作品の事例から」『民族藝術』25pp.152-157

 2009b 「こだわりとウリ:岐阜県関市の一刀匠の自家製鉄」『人文科学研究』38pp.109-116

2009c  「日本刀の価値と刀匠のアイデンティティ」『東アジア研究』52pp.3-16

2009d 「日本刀剣界の〈美術〉性をめぐるせめぎ合い:岐阜県の「関の刀匠」の日常的実践」『日本民俗学』260pp.1-34

尾上卓生・矢野宏

 1999 『刃物のおはなし』日本規格協会。

香月節子

 2002 「近代洋鋼の流通とその性格」『もの・モノ・物の世界:新たな日本文化論』雄山閣、pp.69-89

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2008 『世界制作の方法』菅野盾樹(訳)、筑摩書房。

後藤 明

2002 「技術における選択と意思決定:ソロモン諸島における貝ビーズ工芸の事例から」『国立民族学博物館研究報告』27(2)pp.513-539

俵 國一

 1953 『日本刀の科學的研究』日立評論社。

橋本毅彦
  2001 「近代科学と伝統技術の遭遇:俵國一の日本刀の冶金学的研究」『科学の文化的基底(Ⅱ)』、pp.225-237

矢野 宏

 1979 「包丁の感覚切味の定量化」『精密機械』45(12)pp.71-76

 1992 『測る:感覚を科学する』日刊工業新聞社。