2012年4月14日土曜日

第11回まるはち人類学研究会 「身体的な〈問題〉の生じる地点——学問と現場、それぞれで線を引く」のご案内

みなさま

花の便りもあちこちで聞かれる時候になってまいりました。

本年度もまるはち人類学研究会へのご参加をお待ちしております。
さて、第11回研究会の開催が決定し、プログラム等の詳細が決まりました。

期日が近く、お忙しい時期とは思いますが、皆様誘い合わせの上ご参加ください。


まるはち人類学研究会
第11回研究会「身体的な〈問題〉の生じる地点——学問と現場、それぞれで線を引く」

日時:2012年4月28日(土曜日) 14:00~17:15

場所:南山大学人類学研究所1階会議室

14:00-14:05 企画趣旨説明

14:05-14:55 発表1「ブルデュー引用小史——身体的/物質的(physical)〈問題〉への帰着と逆説」
中尾世治(南山大学大学院人間文化研究科人類学専攻博士後期課程)

14:55-15:45 発表2「「喘息の予防接種はありますか?」——保見団地のブラジル人は何を子どもの健康問題だと認識しているのか」
大谷かがり(中部大学生命健康科学部保健看護学科助手)

15:45-16:00 休憩

16:00-16:15 コメント
斉藤尚文(中京大学現代社会学部教授)

16:15-17:15 討論



<企画趣意>
身体的な〈問題〉の生じる地点――学問と現場、それぞれで線を引く

 日本語で書かれたものだけでも身体論は膨大なものにおよぶ(たとえば、市川1984; 川田1988; 菅原1993; 河合1998; 福島1995; 野村1996; 野村・菅原1996; 野村・市川1999; 野村・鷲田2005; 市野川2000; 鷲田2006; 荻野2006; 菅原2007; 石川2007; 市野川2007; 倉島2007; 浮ヶ谷2010など)。乱暴に見立てをすれば、身体による表現のレベル(身体加工、身体動作、身体技法)、言語的表現のレベル(身体の象徴)、社会と権力のレベル(身体の管理と抵抗)で論じられている。これを言い換えれば、身体は、自然と文化の中間、人間と物質の中間、言語と非言語の中間、社会と個人の中間、自己と他者の中間、所有と非所有の中間、あるいは、制御と制御不能の中間に位置するものとして、その両者に揺れるものとして論じられている。揺らぎやせめぎあいやかけひき、饗応や交感や混淆や学習のなかに、つまりさきにあげた様々な中間のなかに身体は位置づけられよう。そして、この中間にわけいればわけいるほど、差異は微分されていくように思われ、身体論は無限に反復し、展開していくであろう。
上記に挙げた諸研究の意義や可能性、ひきつぐべき内容をここで詳らかにはしない。見立てによっては、本企画に類似した諸研究を見出すことも可能であろう。しかし、本企画では、さきの見立てにそっていえば、種々の中間で混ざり合わせるのではなく、中間に線引きをすること、このことをめざす。どのように、社会と個人、制御と制御不能の中間に線が引かれるのか。線を引くことで、どのように身体が対象化されるのか。これらを問いたい。その意味で、あえて原初的にいえば、身体が〈問題〉となる地点を主題化する。網羅的に論じることは到底できないが、本企画では、身体が〈問題〉となる、学問と現場の二つの局面から複眼的に論じていきたい。
中尾は、日本の文化人類学におけるブルデューの引用のされ方を論じていき、どのようにして、身体と物質(モノ、マテリアリティ)が〈問題〉として、近年の日本の文化人類学のなかで焦点化されてきたのかを明らかにする。そのうえで、ハビトゥス、実践、エージェンシーといったキーワードに、矛盾するような内容を含み、あらゆる事象を包含していくようなレトリックのインボリューションが生じていることを指摘する。そして、こうしたレトリックのインボリューションに抗するためには、実証可能な問いと実証不可能な問いの中間に線を引き、問われるべき〈問題〉をあらためて明確にする必要があることを論じる。
大谷は、保見団地のブラジル人の健康がいかにして現場で〈問題〉となるのかを論じる。看護師として加わった、ブラジル人の子どもの健康相談会を事例として、相談にきたブラジル人が話す健康の問題と看護師としての大谷が捉える健康の問題とにズレがあることを明らかにする。ここでは、看護師の捉える、身体の問題と、参加した人たちの捉える、健康問題とのあいだに、あえて線を引き、それぞれの捉える〈問題〉がどのようなコンテクストで生じてきたのか、いかにして共有されてきたのかを論じる。

文献目録
石川准編
  2007 『脈打つ身体』、岩波書店
市川浩
  1984 『「身」の構造: 身体論を超えて』、青土社
市野川容孝
  2000 『身体/生命』、岩波書店
市野川容孝編
2007 『交錯する身体』、岩波書店
浮ヶ谷幸代
  2010 『身体と境界の人類学』、春風社
荻野美穂編
  2006 『資源としての身体』、岩波書店
河合香吏
  1998 『野の医療――牧畜民チャムスの身体世界』、東京大学出版会
川田順造
  1988 「身体技法の技術的側面」『社会人類学年報』14: 1-41
倉島哲
  2007 『身体技法と社会学的認識』、世界思想社
菅原和孝
  1993 『身体の人類学: カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動』、河出書房新社
菅原和孝編
  2007 『身体資源の共有』、弘文堂
野村雅一
  1996 『身ぶりとしぐさの人類学: 身体がしめす社会の記憶』、中央公論新社
野村雅一・菅原和孝編
  1996 『コミュニケーションとしての身体』、大修館書店
野村雅一・市川浩編
  1996 『技術としての身体』、大修館書店
野村雅一・鷲田清一編
  2005 『表象としての身体』、大修館書店
福島真人
  1995 『身体の構築学 : 社会的学習過程としての身体技法』、ひつじ書房
鷲田清一編
  2006 『夢みる身体』、岩波書店





<発表者要旨>


ブルデュー引用小史――身体的/物質的(physical)〈問題〉への帰着と逆説


南山大学大学院人類学専攻博士後期課程 中尾世治



 本稿は、日本の文化人類学におけるブルデューの引用のされ方の歴史を出発点として、物質的・身体的(physical)次元がいかに対象とされたのかを検討し、人類学が何を〈問題〉としてきたのかを明らかにする。そして、人類学の理論研究が何をめざしうるのか、その潜在性をしめしたい。言い換えれば、ブルデューの用いられ方に着目して、80年代以降の日本の文化人類学の学説史研究をおこない、80年代以降の用語群を相対化することを目的としている。
 本稿は、ふたつのナイーブな問題意識に憑かれている。
ひとつは、人類学の学説史を進歩・発展史観ではないかたちで語ることは可能かという問いである。ありていにいえば、現在の研究を過去の研究の最先端や頂点ではないものとして捉えることは可能であろうか。このような問題意識の基礎づけとしては、フーコーの人文諸科学のエピステモロジー(フーコー1974)やクーンのパラダイム論(クーン1971)をあげれば十分であろう。しかし、本当に、現在の研究を過去の研究からの発展としてではなく捉えられるであろうか。
 もうひとつは、人類学はいったい何を〈問題〉としているのかという問いである。実践、エイジェンシーなどといった語を用いて、いったい何を語っているのだろうか。言い換えれば、人類学とは何かではなく、人類学の〈問題〉とは何か、ということを問いたい。素朴で、不遜な問いであると思う。人類学学徒として、近年の日本の文化人類学の用語を、意識的に忘れる/学びほぐす/何もわからなくする(unlearn)試みを通じて、学び直したいと考えている。
 もちろん、人類学全体を論じることはできない。対象の限定をおこなう。本稿では、日本の文化人類学を主たる対象とし、特にブルデューの引用に着目する。なぜブルデューなのか。簡潔に述べておこう。ブルデューは『文化を書く』以前から引用され、以後も頻繁に引用され、日本の文化人類学では「流行」と呼びうるほどの引用がなされている。ブルデューへの批判が定式化された後も、その定式化のうえにいくつかの概念形成がなされた。そして、ハビトゥス、実践という語は、ブルデューから直接的・間接的に日本の文化人類学の数多くの文献に伝播している。これらの点において、ブルデューは特異な存在であり、その引用に着目することで80年代以降の日本の文化人類学のひとつの側面を明らかにしうると考えている。

文献目録
猪瀬浩平
  2005 「空白を埋める――普通学級就学運動における「障害」をめぐる生き方の生成」、『文化人類学』70: 309-326
太田好信
  1993 「文化の客体化――観光をとおした文化とアイデンティティの創造」、『民族学研究』57: 383-410
大塚和夫
  1983 「下エジプトの親族集団内婚と社会的カテゴリーをめぐる覚書」、『国立民族学博物館研究紀要』8: 563-586
春日直樹
  1991 「フィジーの一村落における文化の動態」、『民族学研究』55: 357-379
クーン、T.
  1971 『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房
関根康正
  1986 「タミル社会のケガレ観念の諸相――ヒレルキーと主体性の相克の場所」、『民族学研究』51: 219-247
田中雅一
  2006 「ミクロ人類学の課題」、『ミクロ人類学の実践――エージェンシー/ネットワーク/身体』: 1-39、世界思想社
  2009 「エイジェントは誘惑する:社会・集団をめぐる闘争モデル批判の試み」、『集団』: 275-292、京都大学学術出版会
田辺繁治
  1989a 『人類学的認識の冒険』、同文館
  1989b 「民族誌記述におけるイデオロギーとプラクティス」、『人類学的認識の冒険』: 95-119、同文舘
  1997 「実践知としての呪術――北タイにおける憑依の身体技法覚書」、『民族学研究』62: 394-401
  2002a 「再帰的人類学における実践の概念――ブルデューのハビトゥスをめぐり、その彼方へ」、『国立民族学博物館研究報告』: 533-573
  2002b 「日常的実践のエスノグラフィ――語り・コミュニティ・アイデンティティ」、『日常的実践のエスノグラフィ――語り・コミュニティ・アイデンティティ』: 1-39、世界思想社
田森雅一
  1998 「都市ヒンドゥー命名儀礼における主体構築と命名慣習の変容」、『民族学研究』63: 302-325
西井凉子
  2006 「社会空間の人類学――マテリアリティ・主体・モダニティ」、『社会空間の人類学――マテリアリティ・主体・モダニティ』: 1-31、世界思想社
フーコー、M.
  1974 『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社
堀内正樹
  1984 「研究動向 中東民族誌の展開」、『社会人類学年報』10: 189-203
三浦敦
  1989 「フランス農村における親族」、『民族学研究』54: 198-208
宮治美江子
  1983 「パリのアルジェリア人移住労働者 家族の適応と社会的ネットワーク」、『民族
学研究』48: 275-310
  1985 「アシューラ Ašùra祭礼の多義的性格とマグリブ文化」、『民族学研究』49:
381-387
森田敦郎
  2003 「産業の生態学に向けて――産業と労働への人類学的アプローチの試み」、『民族学研究』68: 165-188
  2007 「機械と社会集団の相互構成――タイにおける農業機械技術の発展と職業集団の形成」、『文化人類学』71: 491-517
モハーチ、ゲルゲイ
  2008 「差異を身につける――糖尿病薬の使用にみる人間と科学技術の相関性」、『文化人類学』73: 70-92
モーラン、ブライアン
  1989 「美術・陶芸・社会人類学の価値観について――日本の陶芸を人類学的に観察する」、『民族学研究』54: 310-321







「喘息の予防接種はありますか?」-保見団地のブラジル人は何を子どもの健康問題だと認識しているのか



中部大学 大谷かがり

はじめに


1980年代後半から自動車関連企業の労働力として日系人が豊田市内の工場で働くようになった。1990年の出入国管理及び難民認定法の改定後、豊田市内やその周辺の製造業に従事するブラジル人が増え、保見団地に集住するようになった。1990年以降、特別在留資格によって日本で働く日系人の労働や暮らしに関する研究は、ブラジル人の就労形態、NPOやボランティアによるブラジル人の子どもの教育への支援活動を分析し、地域とのつながりが希薄なマイノリティであるブラジル人について論じ、ブラジル人が定住するのか否かについて議論してきた。
しかし、保見団地でフィールドワークをしているとき、ブラジル人の友人と話しをしているとき、いつも「ブラジル人が定住するのか否か」がひっかかった。この人たちは定住するか否かということを意識して生活しているのだろうか?自分たちのことをマイノリティだと考えているのだろうか?研究での議論が当事者の感覚と乖離していないだろうか?
私は2003年から外国人医療支援グループのメンバーである。このグループは豊田市内の在住外国人の健康をサポートするために健康相談、ワークショップ、現状調査などを行っており、2004年から保見団地でブラジル人学校の児童・生徒を対象にした健康相談会を実施している。2004年に初めて健康相談会に参加したとき、私は看護師であるので問診を担当した。問診とは、医師の診察の前に、患者に病状、既往歴、家族歴、日常生活などを聞くことをいう。そこで私は、昼夜逆転し、テレビゲームに夢中な肥満の子ども、働きすぎが原因で尿路感染症に罹り尿が緑色な子ども、小学校入学前の年齢であるにもかかわらず精神疾患を患う子どもなどを目の当たりにして、なんという不健康な状態なのかと大変驚き、そのような現状に悩む保護者の姿に、私にできることはないだろうかと考えた。このことがきっかけで、保見団地のブラジル人の子どもの健康を調査するために、2005年から保見団地でフィールドワークをはじめた。
フィールドワークを通じて見えてきたのは、看護師大谷が問題だと思ったところと、ブラジル人が問題だと思ったところが必ずしも同じではないということであった。保見団地では、看護師大谷が「なんでそれが問題か?」と思うことも健康の問題となっていた。また、「なんでそれを問題にしないの?」ということも多々あった。
第3回まるはち人類学研究会「健康を相対化する」では、ブラジル人と日本人が健康について話し合う場を設け、健康で暮らすために必要な情報をブラジル人コミュニティに発信し続けている外国人医療支援グループの活動を事例にして、世界保健システム論(池田 2001)からブラジル人の子どもの健康とその問題をめぐる人びとの実践について考えた。行政の視点から住民の健康をみてみると、行政上の「市民」とならないと健康政策に乗ることができない。しかし市民となっても広報などで主体的に健康を獲得していかないと行政から「見えない存在」となってしまう。外国人登録の制度上、必ずしも豊田市の行政上の市民とはなっていないブラジル人も多く存在する保見団地のブラジル人コミュニティでは、日本語の読み書きが苦手なブラジル人が多く、彼らはコミュニティ通訳者やブラジル人学校の教員から豊田市での暮らしに必要な情報を手に入れている。第3回の発表では、外国人医療支援グループのメンバー、コミュニティ通訳者、ブラジル人学校の教員がそれぞれの文化をふまえた病気対処行動について話し合い、互いが妥協できるところを探し、日本とブラジルの医療文化が混在した病気対処行動をコミュニティに蓄積していく過程を分析した。
本発表では、看護師大谷が問題だと思ったところと、ブラジル人が問題だと思ったところが必ずしも同じではないということ、看護師大谷がこれは健康問題だと思ったことと、看護師大谷が「なんでそれが問題か?」と思う、ブラジル人にとっての健康の問題について、それぞれのコンテクストを明らかにしたい。そして保見団地における人びとの子どもの健康の問題化と共有の仕方について考えたい。

文献目録
浅川和幸
  2009 「日系ブラジル人労働者の労働と生活: 職場における「みえない定住化」とそのゆくえ」、小内透編『調査と社会理論・研究報告書27 地域生活における外国人と日本人の関係』: 35-49、北海道大学大学院教育学研究院教育社会学研究室
池田光穂
  2001 『実践の医療人類学』、世界思想社
小内透編
  2009 『在日ブラジル人の労働と生活』、御茶の水書房
大谷かがり
  2007 「日系ブラジル人の子どもの健康を守る」、『地域問題研究』74: 2-9
  2008 「日系ブラジル人の子どもたちをめぐる社会空間――日本語教室のある日の出来事から」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』9: 355-374
  2009 「日本に暮らす日系ブラジル人の子どもの健康をめぐる人びとの実践」、『共生の文化研究』2: 20-29
  2010 「日系ブラジル人と日本人が「健康」をつくる――外国人医療支援グループの活動を事例として」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』11: 225-241
梶田孝道、丹野清人、樋口直人
  2005 『顔の見えない定住化――日系ブラジル人と国家・市場・移民ネットワーク』、名古屋大学出版会
近藤敏夫
  2005 「日系ブラジル人の就労と生活」、『社会学部論集』40: 1-18
都築くるみ
  1999 「外国人受け入れの責任主体に関する都市間比較――豊田市の事例を中心に、大泉市、浜松市との比較から」、『コミュニティ政策学部紀要』2: 127-146
  2001 「外国人との『共生』とNPO――愛知県豊田市H団地を取り巻くNPOの現状と課題」、『コミュニティ政策研究』3: 61-79
  2003 「日系ブラジル人を受け入れた豊田市H団地の地域変容――1990~2002年」、『フォーラム現代社会』2: 51-58
米勢治子
  2007 「外国人集住地域におけるネットワーク形成――あるNPOの活動を通して」、村井忠政編『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生』、明石書店
経済社会総合研究所
  2006 『第25回ESRI――経済フォーラム報告書』