2011年11月20日日曜日

第9回まるはち人類学研究会 『経済から宗教をみる―「宗教組織の経営」についての文化人類学的研究―』のお知らせ

みなさま
 
日に日に、寒さが増していますが、いかがお過ごしでしょうか。
 
このたび、以下の日程で、第9回目の研究会を行うこととなりました。
お誘いあわせのうえ、ぜひ、ご参加ください。
なお、今回は、中部人類学談話会との共催です。
 
  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
日時:2011年12月3日(土曜)13時30分より
場所:椙山女学園大学 星が丘キャンパス 現代マネジメント学部 地階 001教室
(名古屋地下鉄東山線星ヶ丘駅下車 徒歩5分)
 
『経済から宗教をみる―「宗教組織の経営」についての文化人類学的研究―』
 
13:00 開場
13:30~13:40 「中部人類学談話会とまるはち人類学合同企画」趣旨説明
13:40~13:50 『経済から宗教をみる―「宗教組織の経営」についての文化人類学的研究―』趣旨説明
13:50~14:40 藏本龍介『〈都市〉を生きる出家者たち―上座仏教社会ミャンマー・ヤンゴンの僧院経営―」
14:40~15:30 清水貴夫『タリベとコーラン学校のモビリティ:ブルキナファソの事例から』
15:30~15:45 休憩
15:45~16:15 コメンテーター(15分×2)
(南山大学人間文化研究科教授 坂井信三、日本学術振興会特別研究員(PD)門田岳久)
16:15~17:00 質疑応答(フロア)
 
   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



経済から宗教をみる
――「宗教組織の経営」についての文化人類学的研究――

◆本企画の背景:実践宗教研究の系譜
キリスト教・イスラーム・仏教など、いわゆる世界宗教を対象とした学術研究は、長らく文献学的な教義研究がリードしてきた。しかし教義としての宗教と、信徒によって実際に生きられている宗教は異なる。こうした問題意識から1950年代以降、人類学的な世界宗教研究が始まる。「教義」ではなく「実践」を解明すること。これが現在に至るまで、人類学的な世界宗教研究の一義的な目的であるといってよい(cf. Leach ed. 1968)。
それでは実践をどのように分析するか。この問題について、先行研究において重視されてきたのが、信徒の生きる社会的コンテクストである。信徒はそれぞれのコンテクストにおいて、教義を様々に理解・解釈し、実行する。こうした理解から実践は、コンテクストとの関わりにおいて分析されてきた。たとえば初期の研究(195080年代前半)において注目されたコンテクストとは、その社会に固有の信仰体系であった。つまり現実に展開している実践は、外来の教義(大伝統)と土着の信仰体系(小伝統)が融合した結果生じたものであると考えられ、両者の構造的な関係の解明を目指すシンクレティズムの議論が盛んであった(ゲルナー 1991; Tambiah 1970など cf. Redfield 1956)。
しかしこのようなアプローチは実践を画一的・図式的なものとしてしか描けない。こうした反省から近年の研究(1980年代後半~現在)においては、政治・産業構造の変化、都市化、近代教育の普及、交通・通信の発展といった大きな社会変動という動態的なコンテクストに注目が集まるようになり、多様で新しい実践がそうしたコンテクストと結びつけられて分析されている。たとえばキリスト教圏における公共宗教の復興(カサノヴァ 1997)、仏教圏における改革主義的な仏教運動の展開(ゴンブリッチ&オベーセーカラ 2002)や仏教儀礼の祭礼化(田辺編 1995)、イスラーム圏における急進的な政治運動の登場(大塚 2000)や、再ヴェール化に代表されるようなイスラーム復興現象(大塚編 2002)などである。
しかしこれらの諸研究は、観察されたミクロな実践とマクロな社会的コンテクストを安易に結びつける傾向にあり、特定の社会的コンテクストからなぜそのような実践が析出するのかという問題を、十分に説明できているとは言い難い。したがって宗教の世俗化/再活性化、個人化/公共化といった相反するイメージが、同じ社会変動というコンテクストによって説明されるという状況になっている。
このようにこれまでの実践宗教研究においては、実践を取り巻く社会的コンテクストが重視されてきたが、そうしたコンテクストが具体的にどのように実践の現れ方を規定しているのか、よくわからない。その原因は、実践とコンテクストの距離が離れすぎているところにあるように思われる。今・ここにおいて、なぜこのような実践が行われているのか。その核心に迫ることができるようなコンテクストの設定、分析枠組みが必要である。


◆本企画の視点:経済から宗教をみる
この分析枠組みとして本企画で提示したいのが、実践を取り巻く経済的な問題に注目するという方法である。ここでいう経済的な問題とは、一言でいえばカネの問題である。現実の社会で活動するためには、様々なモノやカネといった財が必要である。それは宗教実践も例外ではない。教義がどれほど高邁な理想を掲げていたところで、実際に何をどのようにできるかは、経済的な問題に大きく左右されている。その一方で、各宗教には財をどのように獲得・利用すべきかについては、何らかの教義的な制約(経済倫理)がある。つまり宗教的な理想を実現するためには、財と自由に関わっていいわけではない。
ここに宗教実践の大きなジレンマが存在している。つまり教義に固執すれば、経済的な現実にうまく対処できない可能性がある。逆に、経済的な現実への対処を優先すれば、教義を逸脱しかねない。こうした教義的理想と経済的現実のジレンマに、信徒たちは実際にどのように対応しているのか。そしてその中からどのような実践を紡ぎ上げているのか。こうした信徒の日常レベルに生じる経済的な問題こそが、信徒の実践により密接に関わる社会的コンテクストである。このように本企画では、実践を教義的理想と経済的現実のせめぎ合いの中から析出するものとして捉え直し、その実態を解明することを試みる。
このような方法論をとることは、以下の二つの点において人類学的な宗教研究に貢献しうると考える。第一に、経済的な問題に注目することによって、宗教実践のダイナミズムを浮き彫りにしうる。教義というプログラムが、現実の社会においてどのように実行されるかを左右する大きな要因は、【教義的理想⇔経済的現実】というせめぎ合いにある。したがってこのせめぎ合いに対する信徒たちの試行錯誤を描き出すことによって、一つの教義から多様な実践が表出していく原理・メカニズムを理解することができる。
第二に、経済的な問題に注目することによって、宗教と経済の相互関係をより具体的に捕捉しうる。宗教(教義)という観念的領域と、経済という唯物的領域はどのような関係にあるのか。この問題についてはK.マルクスとM.ウェーバーの古典的な議論がある。マルクスは物質的経済的土台である下部構造が、政治的・法的・思想的諸形態である上部構造を規定する、つまり「経済が宗教を規定する」と主張した(マルクス 1956など)。それに対してウェーバーは、宗教は経済に規定されない独自の生命をもち、それゆえに「宗教が経済に影響を与えうる」という発想から、近代における資本主義経済システム誕生という大問題に挑んだ(ウェーバー 1989など)。
しかしこれらのいわばマクロな理論は、現実を生きる信徒そのものへの視点を欠いている。ミクロなレベルからみたとき、信徒の実践は、教義的理想もしくは経済的現実のどちらかに規定されているわけではなく、二つのベクトルのせめぎ合いの中にある。つまり宗教と経済の相互関係は動態的で未決定である。したがって、教義的理想と経済的現実がせめぎ合いの中からどのような実践が析出しているかを具体的に観察することは、こうした宗教と経済の複雑な相互関係の一端を解明する一助となるだろう。


◆本企画の目的・方法:「宗教組織の経営」に注目する
経済に注目して宗教実践をみるという試みを行うにあたって、本企画で具体的に取り扱うのは「宗教組織の経営」という問題である。信徒個人ではなく、信徒集団としての宗教組織に注目するのは、その方が研究対象を限定しやすいという実際的な理由による。つまり各宗教の信徒たちが、上述したような教義的理想と経済的ジレンマにどのように対処しているかという問題を、宗教組織の経営という問題を通して具体的に検討する。
 宗教組織の宗教実践とは、布教活動と表現できる。つまりあらゆる宗教組織は、何らかの宗教的・教義的な理想を実現・普及することを目指して活動している。しかし先述したとおり、現実の社会で布教活動をするためには、相応の財(経営資源)が必要である。一方で財の獲得・利用方法については様々な教義的な制約がある。こうした教義的理想と経済的現実のジレンマの中で、宗教組織はどのように経営資源を獲得・使用し、どのような布教活動を行っているか。つまりどのように経営されているか。本企画ではこの問題を、ブルキナファソのコーラン学校(清水発表)とミャンマーの上座仏教僧院(藏本発表)を事例として具体的に検討する。それによってコーラン学校/上座仏教僧院の実態を明らかすることを目的としている。
またこの問題を検討するにあたって、特に都市というコンテクストを重視する。本企画で扱う二つの宗教組織はともに、伝統的に村落社会を主要な経営基盤としてきた。しかし近年の急激な都市化は、宗教組織を取り巻く環境を大きく変化させつつある。こうした都市という環境の中で、コーラン学校/僧院はどのように経営されているのか。そこにはどのような問題があるのか。都市化は、現代社会においては不可避の趨勢である。したがってこの問題を検討することは、コーラン学校/僧院の布教活動、つまりムスリムや上座仏教徒(出家者)の宗教実践の未来を占う上でも重要な意義をもつだろう。
(文責:藏本龍介)

<都市>を生きる出家者たち
――上座仏教徒社会ミャンマー・ヤンゴンの僧院経営――

藏本龍介(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

 本発表の目的は、ミャンマーを事例として上座仏教僧院の経営という問題を検討することによって、現代社会における上座仏教僧の仏教実践のダイナミズムを浮き彫りにすることにある。
上座仏教僧院(以下、僧院)とは、「無執着」という上座仏教の理想を実現することを目的とする出家者の共住集団である。この目的を達成するために、出家者は上座仏教教義、特に出家者の規則である「律」(ヴィナヤ)によって、経済活動や生産活動が禁じられている。つまり僧院を経営するために必要な諸々の資源を自ら獲得することができない。したがって在家者からの布施に依拠するという経営スタイルをとっている。しかし布施というのは要するに与え手の善意に基づくものであるため、経営基盤としては不安定なものである。こうした原理的なジレンマを抱える僧院は、実際にどのように経営されているのか。
この問題は、上座仏教徒社会に関する人類学的な研究において、長らく明示的な問題となってこなかった。なぜならこれらの先行研究においては、出家者が国家レベル/村落レベルにおいて社会に不可欠な役割を果たすがゆえに、在家者(世俗権力/村人)からの布施を受けるという、出家者と在家者の互酬的な共生モデルが前提とされていたからである。つまり僧院が布施を受けるのは自明のこととされた(石井 1975; Gombrich 1971; Spiro 1970; Tambiah 1976など)。
しかし「近代化」と総称されるような社会変動は、こうした自明性を掘り崩している。王国から国民国家への移行、市場経済の進展に伴い、僧院を取り巻く環境も大きく変化した。それは一言でいえば、僧院の民営化・市場化である。僧院の経営基盤は、旧来の①パトロン型(国家)や②コミュニティ型(地縁共同体)から、③マーケット型(市場)へと急速に移行しつつある。僧院は、こうした市場的環境――本発表ではこれを<都市>と表現する――にどのように対応しているのか。
この問題についてはタイ都市部を事例として、「黄衣ビジネス」と揶揄されるような護符の商品化(Tambiah 1984; 2000)や、瞑想法の簡易化・組織化によって多くの信徒・資金を集めたタンマガーイ寺についての分析などがみられる(矢野 2006など)。ただしこれらは特殊事例の分析に留まっており、<都市>を生きる出家者たちの実態が明らかになっているとは言い難い。そこで本発表では、1990年代以降、急激な都市化を経験しているミャンマー最大都市ヤンゴンを事例にその具体的様相を検討する。
発表の前半では、都市僧院の布施調達活動の実態とその問題について、俯瞰的に整理する。発表の後半では、律の遵守を目指す原理主義的な二つの僧院に対象を絞り、そうした試みがどのように展開したかを紹介する。こうした検討を通して、教義的理想(律の規定)と経済的現実のジレンマがどのように表出し、それに対してどのような試行錯誤がなされ、そこにどのような問題があるのかを整理する。それによって出家者の仏教実践が多様化していく原理・メカニズムを描き出したい。

 『タリベとコーラン学校のモビリティ:ブルキナファソの事例から』

名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程
清水貴夫

ムスリム社会であるブルキナファソにおいては、都市化の流れに伴い、一般的に「ストリート・チルドレン」と呼ばれる少年たちの姿が目立つようになった。ブルキナファソ社会行動省の調べによれば、その44%が、コーラン学校の生徒タリベTaribéだという(Ministre de l'action sociale et de la solidarite national 
2002 Programme national d'action educative en milieu ouvert2003-2007)。本研究の発端は、コーランを学ぶ少年たちのはずのタリベがなぜストリートに繰り出すことになったのか、ということであり、コーラン学校が「ストリート・チルドレン」の発生にいかようにかかわるのかということへの疑問である。本発表では、この問題に対し特にコーラン学校の経営の変容を通して、なぜタリベが社会問題化されたのかを検討する。
 コーラン学校は、そもそも外来宗教であるイスラームがこの地域に浸透する過程で、この地域にとっては初めての体系的な教育システムとして各所に設置されてきた。いわゆる伝統的社会においてもこの制度は広く受け入れられてきた。伝統社会におけるコーラン学校は、畑を所有し、タリベとマラブー(導士)がともに働いて自給自足を行っていた。そして、タリベの親や地域の富裕者層からのタリーカ(喜捨)による金品の贈与、この二つの収入獲得手段によってコーラン学校が支えてきた。これが一つのコーラン学校のプロトタイプとして、この地域の人びとに認識されている。
しかし、このコーラン学校を取り巻く環境は大きく変容している。ひとつは近代的な教育システムの普及によって、コーラン学校の地位が相対的に低下したことによる。現在のブルキナファソにおいては、マドラサ、フランコ=アラブ、コーラン学校の3つの学校形態が存在し、CMBF、およびムスリム富豪による支援はマドラサとフランコ=アラブに集中している。より私的な組織でマラブーが個人で経営する、いわば寺小屋的なコーラン学校は、独自の収入源を求めなければならない。
もうひとつは村落部の変容である。CMBFなどから毎年決まった支援を受けたことのない村落部のコーラン学校では、地域社会がマラブーに使用させる土地での自給自足がコーラン学校の運営の基礎となる。これに喜捨が加わってコーラン学校が成立していた。しかし、村落部の人口圧力や不安定な農業生産、さらに貨幣経済の比重が重くなることにより、従来のコーラン学校のシステムにひずみが生じ、村落での持続的な運営は困難になっていく。
このためコーラン学校は、より資源獲得の可能性が高い都市へと移動を繰り返す。実際に、多くのコーラン学校が数年単位、時に数カ月単位で拠点を移しながら、最終的に大都市、ワガドゥグにたどり着くこととなる。都市に移動したとしても、コーラン学校は従来のシステムを踏襲できるわけではない。マラブーは、様々な運営努力をする中で、宗教的な要請から外れていると認識しつつも、タリベたちにストリートで「喜捨」を集めさせる。こうした、タリベの行為は、物乞いをする少年たち、つまり「ストリート・チルドレン」として見做されるようになる。
このようにブルキナファソにおける「ストリート・チルドレン」問題は、新たな経済的現実に「喜捨」を集めるという方法で対処しようとするコーラン学校の経営形態と密接に結びついている。本発表ではこの事象を、現代ムスリム社会における宗教と経済の相互関係を示す一事例として提示してみたい。


◆参照文献
ウェーバー、マックス 198919021903)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)岩波書店。
大塚和夫 2000 『近代・イスラームの人類学』東京大学出版会。
大塚和夫(編)2002 『現代アラブ・ムスリム世界』世界思想社。
カサノヴァ、ホセ 1997 『近代世界の公共宗教』(津城寛文訳)玉川大学出版部。 
ゲルナー、E. 19911981)『イスラム社会』(宮治美江子ほか訳)世界思想社。
ゴンブリッチ、リチャード ガナナート・オベーセーカラ 20021988)『スリランカの仏教』(島岩訳)法藏館。
田辺繁治(編) 1995 『アジアにおける宗教の再生: 宗教的経験のポリティクス』京都大学学術出版会。
マルクス、カール 19561859)『経済学批判』(武田隆夫ほか訳)岩波書店。
Leach, Edmund R. (ed.) 1968 Dialectic in practical religion. Cambridge papers in social anthropology Vol.5. Cambridge: Cambridge University Press.
Redfield, Robert 1956 Peasant society and culture: an anthropological approach to civilization. Chicago: University of Chicago Press.
Tambiah, Stanley J. 1970 Buddhism and the spirit cults in Northeast Thailand. Cambridge: Cambridge University Press.

◆参考文献[藏本発表]
石井米雄 1975 『上座部仏教の政治社会学』創文社。
林行夫 2000 「現代タイ国における仏教の諸相:制度と実践の狭間で」『現代世界と宗教』総合研究開発機構・中牧弘允(編): 71-87 国際書院。
矢野秀武 2006 『現代タイにおける仏教運動:タンマガーイ式瞑想とタイ社会の変容』東信堂。
Gombrich, Richard F. 1971 Buddhist precept and practice: traditional Buddhism in the rural highlands of Ceylon.2nd ed.1991Delhi: Motilal Banarsidass Publishers.
Spiro, Melford E. 1970 Buddhism and society: a great tradition and its Burmese vicissitudes. New York: Harper & Row.
Tambiah, Stanley Jeyaraja 1976 World conqueror and world renouncer: a study of Buddhism and polity in Thailand against a historical background. Cambridge; New York: Cambridge University Press.
Tambiah, Stanley Jeyaraja 1984 The Buddhist saints of the forest and the cult of amulets: a study in Charisma, Hagiography, Sectarianism, and Millennial Buddhism. Cambridge: Cambridge University Press.

◆参考文献[清水発表]
Coquery-Vidrovitch, Catherine 1993 Histoire des villes d’Afrique noire: Des origins à la colonisation  Albin Michel
Enda tm jeunesse action  (出版年不明Taribé au Burkina Faso, de l’étude à l’action
ゲルナー, アーネスト19811990)『イスラム社会』(宮治美江子・堀内正樹・田中哲也訳)紀伊国屋書店
飯森嘉助 1992「都市と教育」板垣雄三・後藤明(編)『事典 イスラームの都市』亜紀書房
陣内秀信・新井勇治(編)2002『イスラーム世界の都市空間』法政大学出版
LEVZION, Nehemia 1968 MUSLIMS AND CHIEFS IN WEST AFRICA : A STUDY OF ISLAM IN THE MIDDLE VOLTA BASIN IN THE PRE-COLONIAL PERIOD, OXFORD AT THE CLARENDON PRESS
Naba Jérémie WANGRE et Alkassoum MAIGA 2009 Enfants de rue en Afrique L’Harmattan
大塚和夫 1989『異文化としてのイスラーム』同文舘
坂井信三 1995「文書活動と宗教的イデオロギー―19世紀西スーダンのジャの事例から」杉本良夫(編)『宗教・民族・伝統 イデオロギー論的考察』南山大学
坂井信三 2003『イスラームと商業の歴史人類学 西アフリカの交易と知識のネットワーク』世界思想社
嶋田義仁 1994『異次元交換の人類学-人類学的思考とはなにか-』勁草書房
Skinner, Elliot 1964 The Mossi of The Upper Volta Stanford University Press
Skinner, Elliot 1966 Islam in Mossi Society “Islam in Tropical Africa” Indiana University Press
Skinner, Elliot 1974 African Urban Life, Transformation of Ouagadougou Prinston University Press
ZAMPO, Lassina 2007 L’école coranique migrante, une pratique éducative en questione : cas des écoles colaniques de la commune de Ouagadougou au Burkina Faso Mémoire de fin d’études présenté en vue de l’obtention du grande de licencié en politique économique et sociale, Université Catholique de Louvain

2011年9月1日木曜日

第8回まるはち人類学研究会 合評会 東賢太朗著『リアリティと他者性の人類学―現代フィリピン地方都市における呪術のフィールドから』

次回研究会のお知らせです。



著者の東賢太朗氏をお招きして、合評会をおこないます。

東賢太朗
 2011 『リアリティと他者性の人類学―現代フィリピン地方都市における呪術のフィールドから』、三元社。


10月22日(土) 15時-18時 終了後懇親会あり
会場:名古屋大学文学部棟大会議室(110号室)


15:00-15:10 趣旨説明
15:10-16:00 著者による説明
16:10-16:25 ディスカッサント1 神谷良法(名古屋大学大学院文学研究科博士研究員)
16:25-16:40 ディスカッサント2 片岡樹(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授)
16:55-18:00 質疑応答




2011年6月24日金曜日

第7回まるはち人類学研究会 ポストユートピアの映像化

下記の要領で研究会をおこないます。
皆様ふるってご参集ください。



日時:7月16日(土):13時00分-18時00分頃 終了後懇親会あり
場所:南山大学名古屋キャンパス人類学研究所 1階会議室
http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html




ポスト・ユートピアの映像化

13:00-15:00 レオニード・ロペス("霧の工場" 脚本・監督)
"霧の工場" (Fábrica de Humo)

15:15-16:30 田沼幸子(大阪大学特任研究員)
"キューバ・センチメンタル" (Cuba Sentimental)

16:30-17:10 コメント
石塚道子(お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科教授)

岡田秀則(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員)


17:10-18:00 質疑

1. 企画要旨
 キューバのポスト・ユートピア的な日常について語るのに「民族誌」というスタイルは適切なのだろうか。人々のときに饒舌な語り、意外な沈黙、「資本主義国」からは想像のつかない風景、こういったものは一見して映像のほうが捉えやすいように見える。実際、近年、キューバに関する本よりも映画の方がしばしば注目を集めている。だが映像は、人類学的表現の、文章のオルタナティブとなりうるだろうか。それとも、それらは補完的なものだろうか。
 日本では「キューバ革命」は1959年とされている。しかしキューバにおいては、それは「革命の勝利」した瞬間でしかなく、革命(独立運動)はその100年前から始まり、現在も継続するものとして語られる。その一方で、ソ連崩壊以降、公務員の給料と配給所での販売では必要な食糧を十分に得ることも困難になり、ドルショップや闇市場が日常的に必要とされるようになった。それはつまり社会主義という原則からの逸脱を意味する。それでもキューバ政府は、これが「平和時の非常期間」(Special Period in Times of Peace)であるという見解のもと、あくまで社会主義を貫くのだという立場をとってきた。(注:2010年には公務員50万人が解雇され、178職種の自営業が認められたが、それでも市場経済に移行するというわけではない)。こうしたなか、日常は、現地の人がしばしば言うように「シュールな(surreal)」ものとなる。本来不法であるものが必要不可欠なものとなり、皆が知っているはずのことが言うべきでないこととなる。例えば、官製メディアは、国内に関しては現にあるはずの「問題」を報道することなく、理想とされる未来や、その未来図に沿って計画されたプランの「輝かしい」側面しか伝えない。このような状況下を、「革命勝利」をリアルタイムで知らない世代の若者達は、どのように生きているのか。そのあり方をそのまま描くと、「政府批判」ととらえられかねない状況のなかで、どうしたら批判でもなければ肯定でもないやり方で、この表象とイメージのズレを伝えることができるだろうか。
 本企画の報告および上映映像はキューバを対象としたものにしぼる。しかし、グローバリゼーションとポスト・コロニアル研究の第一人者である石塚道子氏、劇映画、ドキュメンタリー、国内外を問わずフィルムに造詣の深い東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員の岡田秀則氏を招き、ポスト・ユートピアのキューバを映像化するということの意味を、さらに別のコンテクストで理解し、他の地域および研究分野と関わらせながら議論を発展させることを目指したい。そうすることによって、「映像を人類学にどう活かすか」といった、まず映像という手段ありきの議論ではなく、まず対象となる社会に参与したのち、どうdescribe(「記述」と訳してしまうと文章のみを想起するが、この言葉なら映像を含めた表現も示せるだろう)すればその観察を適切に伝達することができるかを考える、という、人類学の基本的なスタンスから映像表現とそのあり方を問うことが可能となるだろう。

2. 発表要旨
 報告者1のレオニード・ロペスは、キューバから出国した経験のないときに映画『霞の工場(Fábrica de Humo)』を共同で監督した。同名の発表をもとに、彼や身近な人々がどのように自国の現状をとらえているのかを解説する。

 報告者2の田沼幸子は、制作した映画『Cuba Sentimental』を上映する。報告者は2004年までのフィールドワークをもとに「ポスト・ユートピア」というキーワードを用いてキューバについて書いてきた。しかし、キーインフォーマントであった数人の友人たちは、希望通り、国外に出ていってしまった。その彼らが出国先で何をどのように考え、感じているのかを通じて、キューバで生きることの感覚が逆照射されるだろう。作品の『Cuba Sentimental』というタイトルは、センチメンタルなキューバ、という意味もあるが、常に政治的な二項対立の語彙で語られがちなキューバの表象に対し、sentimiento(感情)に着目することでこれを崩し、別の見方を示したいという意図がある。本作では、政治・経済的背景によって引き起こされる感情を扱うことによって、「ネイティブの視点から」キューバからの移民について伝えることを目指している。

コメント:
石塚道子(お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科教授)
岡田秀則(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員)

3. 映像作品紹介

Fábrica de Humo(ファブリカ・デ・ウモ)(霞の工場)

監督・脚本:アドリアン・レプランスキー、レオニード・ロペス
2007年、102分、制作国:キューバ

あらすじ:
 セバスチャンは両親とクラス28歳無職の青年だ。父親は息子がなにもせずにいることをとがめ、仕事をせずに暇だから反抗的なのだと決めつける。
 ある日、セバスチャンは、恋人とよく立ち寄る廃墟を、仕事場にすることに決めた。そこは彼の職場であり、彼が唯一の雇用者となるだろう。
 セバスチャンは、あたかも「本当の」労働者であるかのように、毎日、規則正しくその仕事場に通うようになる。息子が職に就いたという知らせは両親を安堵させ、父親は誇らしげに、職場の同僚とどのように関わるべきかを息子に助言する。
 そのような同僚は全く存在しなかった・・・本作の冒頭から仕事場周辺に出没していた老人が彼に近寄り、「サービス」を申し出るまでは。
 この時以来、2人の関係、老人が語る1959年前の仕事について、老人の個人的な関心とその世界の捉え方が奇妙にかかわりあい始める。しかしあるとき突然、それは終わりをつげる。(Wikipedia “Fábrica de Humo”参照)
主な上映歴:
国際低予算映画祭(キューバ、20084月)
イギリス国際映画祭(イギリス、2008年6月)
ケベック・フランス語映画ランデブー(カナダ、2008年1月)


Cuba Sentimental(キューバ・センチメンタル)


監督・撮影・編集:田沼幸子
監修:市岡康子
編集助手:レオニード・ロペス
2010年、5920秒、制作国:日本

 本作は、博士論文『ポスト・ユートピアのキューバ-非常な日常の民族誌』(2007)でとりあげたキューバ人青年たちのその後を追ったものである。調査時のキューバは経済危機を受けて「非常期間」にあった。社会主義から逸脱する政策――国民のドル所持合法化、外国人観光客の誘致、部分的な市場経済化がとられていた。本作に登場する人々は、こうした新しい潮流になじめない人びとだった。彼らは自国を出ることにした。それは大きな賭けであった。行き先は、イギリス、スペイン、チリ、アメリカと様々である。そして数年間、困難な生活を経ても、彼らは帰国を夢みることはできない。なぜか。それを理解するうえで、これまでしばしば、政治経済的な説明がなされてきた。しかし、本作が光を当てるのは、未知な世界への移動を決断し「乗ってきた船を燃やすようなもの」と自分の境遇を語る人々の心情的な側面である。キューバからの移動は、出国も帰国も禁じられているため、人生のすべてを変える。革命という夢も、移民という夢も覚めたあとの世界のなかで、それでも希望を捨てずに生きていくという道を歩む人々の言葉と表情をとらえることを試みた。

主な上映歴:
大阪大学フォーラム(オランダ、2010年9月)
ケベック国際民族誌映画祭(カナダ、2011年1月)
ゆふいん文化・記録映画祭(日本、2011年6月)

2011年6月7日火曜日

第6回まるはち人類学研究会 「沖縄の祭祀研究はどこへいったのか? ――古典研究とポストコロニアル理論を架橋する試論としての『移動』と『祭祀』――」

下記の要領で研究会をおこないます。
皆様ふるってご参集ください。

日時:7月2日(土):13時30分-17時20分頃 終了後懇親会あり
場所:南山大学名古屋キャンパス人類学研究所 1階会議室
http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html

沖縄の祭祀研究はどこへいったのか?
――古典研究とポストコロニアル理論を架橋する試論としての『移動』と『祭祀』――


13:30-13:40 趣旨説明

13:40-14:20 越智郁乃(広島大学・特別研究員)
記憶のメディアとしての墓と人-現代沖縄における墓の移動を事例に-

14:20-15:00 平井芽阿里(京都大学大学院・グローバルCOE研究員)
本土の沖縄系コミュニティに見る「沖縄」表象 愛知県在住の沖縄県出身者の事例

15:00-15:40 吉田佳世(首都大学東京大学院・博士後期課程)
女性の移動としての離婚/再婚――現代沖縄社会における女性の死後の処遇をめぐる新たな実践の出現――

コメント
15:50-16:05 田中真砂子(お茶の水女子大学・名誉教授)
16:05-16:20 村松彰子(相模女子大学・専任講師)

討論
16:20-17:20


  • 企画要旨
沖縄の祭祀研究はどこへいったのか?
――古典研究とポストコロニアル理論を架橋する試論としての『移動』と『祭祀』――
文責:吉田佳世
     本企画の目的
 本企画の目的は、かつてあれほどまでに興隆した沖縄の祭祀研究(村落祭祀・祖先祭祀)を、いかにポストコロニアル批判以降の現代の文化人類学(以下、人類学と表記)・民俗学の地平に位置づけるのかを模索・検討することにある。
これまで沖縄は、祭祀のみならず親族、世界観など人類学的・民俗学的研究の要であった[e.g.馬淵19551974)、村武1975]。現在でも、日本の「周辺」にあるというその位置性故に、ポストコロニアル批判や研究の焦点的な事例とされる地域である[e.g.村井1992、冨山1990、菊池2010ほか]。ところが、ポストコロニアリズムの興隆の背後で、沖縄の祭祀は古典的研究主題として位置づけられ、研究主題としては周辺化されているという現状がある。しかし、沖縄の祭祀は、「本土化」と呼ばれる以上の急激な社会変化のなか、いまなお人々の関心を集め、創造的な実践が行われている舞台である。このことを考えると、沖縄の祭祀研究は、決して過去の研究主題ではなく、様々な点で現在の人類学・民俗学の動向と切り結ぶ点を有していると考えられる。
本企画では、グローバル化の一局面であるヒトの移動をとりあげ、そのなかで伝統的文化事象としての位置づけをもつ沖縄の祭祀が、現代沖縄社会という文脈のなかでいかに維持され、再構築されているか個別具体的に明らかにする。発表と討論を通じて、これまでほとんど光が当てられてこなかった祭祀の様相を描き出すとともに、今後いかなる人類学・民俗学の議論に位置づけることができるのかを模索していきたい。

     沖縄研究の流れ――明治期から現代まで
 原による沖縄研究の時代区分に依拠しながら[cf. HARA 2007]、本稿では大きく三つの時代に区分する。第一期は、明治期から1950年代に中心的に行われた、日琉同祖論を背景とした文化周圏論にもとづく日本民俗学的研究である。日琉同祖論とは、日本本土(ヤマト)と沖縄(琉球)の民族一体性を強調する仮説のことであり、日本民俗学は、双方の文化的同一性を学術的に立証することを通じてこれに寄与していたといえる。第二期は、1950年代から1980年代前半までの、主に日本本土出身の研究者によって行われた人類学的研究である。この時期は、第一期とは対照的に、沖縄を日本本土や中国の文化の折衷としてではなく、独自の文化として捉えることを目的としており、フィールドワークを通じてひとつの村落を集中的に調査するという研究手法が主流となった[新井1970]。そして、最後に、1980年代後半から現在まで、ポストコロニアリズムが興隆した第三期である。第三期は、先行研究批判と新たな研究主題の掘り起こしが同時に進められたため、ひとつの研究傾向を抽出することは難しいが、対抗的な沖縄人アイデンティティの構築や、観光や芸術、基地文化などの複数文化接触領域(コンタクト・ゾーン)に多く研究関心が向けられているといえる。
本企画のテーマである祭祀が、人類学および民俗学において積極的に議論されたのは、第二期のことである。この頃、西欧由来の構造=機能主義人類学の影響をうけ、祭祀にまつわる諸観念(祖先観、霊魂観、他界観)と祭祀集団原理やその実践との対応関係が注目された[e.g. 大胡1973ほか]。とりわけ、祖先祭祀とそれを担う祭祀集団である門中やその組織化と深いかかわりをもつ社会関係は、沖縄の出自集団として注目され、議論が集中する主題であった[中根1962、東京都立大学南西諸島研究委員会1965、田中1982、渡邊1985ほか]。このような研究手法がとられたのは、当時、祭祀の研究は、事例として扱った祭祀や祭祀集団の個別的理解のみならず、より広く当該地域レベルでの親族・社会システムの解明に寄与できると想定されていたからである。また、この頃は、日本本土出身の人類学者がこぞって沖縄調査を行った時期でもある。そのため、数百にもおよぶ沖縄の祭祀を主題とするモノグラフが刊行されたのである。

     ポストコロニアル批判とその問題点
沖縄の祭祀研究の退潮は、単にポストコロニアリズムによる先行研究批判のみに起因するものではない。人類学における親族研究の退潮という学術的な要因はもちろんのこと、日本全体が高度経済成長をむかえ、その経済力をもとに日本本土出身の人類学者が海外へと研究地を拡大していったこと、沖縄社会自体もその在り方を変えたことなど、学術的動向と社会的動向とが絡み合いながら生じたものであるといえる[吉田 2008]。そのなかで、ポストコロニアリズムによる先行研究批判は、人類学・民俗学がこれまで行ってきた祭祀研究の問題点をより具体的に明らかにしたとして評価することができる。
ポストコロニアリズムがこれまでの沖縄の祭祀研究に対して投げかけた批判は、民族誌論、沖縄人のアイデンティティ、基地といった現代的諸問題、研究者の位置性・政治性など多岐にわたっている。なかでも影響力のあったポストコロニアル批判としては、人類学・民俗学的研究の「本土化による荒廃のない」伝統的文化事象や村落共同体への選好を批判した太田の指摘であろう。太田によれば、人類学的な沖縄研究が、集落単位でのモノグラフィックな調査が主流を占めており、より原初的で、自己完結的な集落を選定してきたのではないかと述べている。彼は、こうした人類学の研究手法を、文化を消えゆくものとして語ろうとする意志であるとし、クリフォードに習い「エントロピックな語り」であると批判した。そのうえで、対象社会の人々の実践を文化の創造過程として捉える事を提唱し、従来の研究において見過されがちであった観光、開発、芸術など異種混淆性に着目した新しい研究主題を掘り起こす流れを作りだしたといえる[太田1998]。 
確かに、第二期のフィールドワークによってひとつの集落を集中的に調査するという研究手法の結果、外部からの影響、たとえば、より巨視的な歴史的・政治的な脈絡との関わりを十分考慮していなかったという問題点は、本企画のテーマである移動という問題にも関わってくる指摘である。しかし、それが「エントロピックな語り口」であったかどうかということについては疑問が残る。とりわけ、第二期のモノグラフを詳細に検討すれば、沖縄の祭祀を沖縄戦後の人々の示す創造的対応として記述してきた研究も少なくないからである[e.g. 村武 1971]。先行研究をエントロピックな語りとして先行研究を一枚岩化し、沖縄の祭祀を古典的研究として周辺化するという昨今の沖縄研究の現状は、逆に、これらの事象を非歴史的、無時間的なものとして固定化する危険をはらんでいるのではないだろうか。

     移動を考える
本企画では、日本本土において形成される移住者たちの沖縄系コミュニティ(平井)、沖縄戦後の都市形成と交通網の発展による向都離村(越智)、離婚や再婚による女性の家間移動(吉田)など、さまざまな現代的局面をヒトの移動として捉えていく。そのうえで、「社会変容によって伝統文化がかように変化した」というような、近代と伝統とを排他的な二分法によって実態的に捉えることから逃れられるような研究発表を目指していく予定である。

     参考文献
新井ウィリアム 1970「中国および日本のメモリアリズムと祖先崇拝」『社』3(1)1-9
大胡欽一1973「祖霊観と親族慣行――琉球祖先崇拝の理解を目指して」日本民族学会(編)『沖縄の民俗学的研究――民俗社会と世界像』pp.169-206.東京:民族学振興会。
太田好信1998『トランスポジションの思想――文化人類学の再想像』世界思想社。
菊池夏野 2010『ポストコロニアリズムとジェンダー』青弓社。
高良倉吉1996「琉球史研究からみた沖縄・琉球民俗研究の課題」『民族学研究』61(3):463-467
田中真砂子 1982「出自と親族」渡邊欣雄(編)『現代のエスプリ3親族の社会人類学』pp.83-108.至文堂。
東京都立大学南西諸島研究委員会(編)『沖縄の社会と宗教』東京:平凡社。
冨山一郎 1990『近代社会と「沖縄人」――「日本人」になるということ』日本経済評論社。
中根千枝1962「沖縄の社会組織 序論」『民族学研究』27(1)1-6
馬淵東一 19551974)「沖縄先島のオナリ神」『馬淵東一著作集3』pp.123-45. 世界思想社。
村井 紀 19922004)『南島イデオロギーの発生――柳田國男と植民地主義 新版』岩波書店。
村武精一 1971「沖縄本島・名城のdescent・家・ヤシキと村落空間」『民族学研究』、36(2)109-150
―――― 1975『祭祀空間の構造――社会人類学ノート』東京大学出版会。
渡邊欣雄 1985『沖縄の社会組織と世界観』新泉社。
吉田佳世 2008「沖縄の祖先祭祀と社会組織に関する研究動向――1960年代以降の位牌祭祀研究を中心に」『社会人類学年報』34177-201
HARA, T. 2007Okinawan Studies in Japan, 1879-2007.Japanese Review of Cultural Anthropology 8:101-136.

  • 発表要旨
記憶のメディアとしての墓と人-現代沖縄における墓の移動を事例に-
広島大学・特別研究員 越智郁乃

 本発表では現代沖縄の墓の移動を事例に、墓における外在化された記憶に注目しながら、墓と人との関係について論じることを目的とする。
沖縄社会は本土日本と比べて特異的に祖先信仰が発達した地域であり、葬墓制及び祖先祭祀を通じた祖先観や、祭祀を支える親族集団の特色が学術的に注目されてきた。そこでのテーマは、死者がいかに儀礼を経て祖先へと変化して子孫を守る存在になるかという柳田國男以来の民俗学における祖先祭祀の議論であった。他方、社会人類学的には、親族組織における近代以降の父系血縁イデオロギーの強化が注目され、その動態が中心的なテーマであった。しかし個々の地域における祭祀儀礼や親族組織の多様性から、「沖縄」としての一般化を拒む研究者らによる異議が呈された。以上の研究に対し二点の問題が挙げられる。(1)人口流動や社会的経済的な変化による影響を考える視点が希薄であり、どこで生きてどこで死ぬかということが問われる現代の死生観の問題に添っていない。(2)祖先祭祀を通じた祖先観や祖先と子孫の繋がりである系譜観に関して、構造的な研究だけではなく、生者側の記憶や情緒により不断に作り替えられる側面に注目した研究の必要がある。
上記の問題点を踏まえ発表者が注目したのが、墓の移動をめぐる人々の語りと実践である。沖縄本島への政治経済的な中心化による都市化と人口移動の活発化を背景に、集合墓地と造りの簡易な新型墓が増加し、移住者が故郷にある墓を都市部に移動するという事象が現在認められる。新型墓は新規造墓の大多数を占めるが、研究者や現地の人々により、亀甲墓に代表されるような斜面に掘り込み墓室を設けた「伝統的な墓」の枠内からは排除されてきた。そこで都市部に移住した離島出身者の祖先祭祀に関する資料を収集し、墓の移動に表象される死者への祈りの場の変化が人々に与える影響を明らかにしながら、既存の祖先観、系譜観研究の批判的検討をこれまで行ってきた。
本発表では、墓の移動過程における骨や石などの「モノの処遇」に関する資料を中心に取り上げる。元の墓からの新しい墓に移動する際に持ち込まれるもの、捨てられるもの、創られるものなど、墓におけるモノを媒介して人々の記憶が外在化される過程の分析から、移住者の故郷観と死者との繋がりが新たな墓にいかに昇華されるか、そして生者の生活にいかなる影響を与えるかということについて考察したい。

本土の沖縄系コミュニティに見る「沖縄」表象 愛知県在住の沖縄県出身者の事例
京都大学大学院・グローバルCOE研究員 平井芽阿里

 本研究の目的は愛知県の沖縄系コミュニティの「沖縄」表象について個々人の民俗宗教の日常的実践から多元的に考察することである。
 本発表では、本土在住の沖縄県出身者が結成した各種団体を「沖縄系コミュニティ」とする。本土における沖縄系コミュニティには、郷友会、青年会、婦人会、芸能団体などがあり、各県ごとの沖縄県人会が全ての団体を総括している。愛知県では愛知沖縄県人会連合会がこれにあたり、1960年代以降、日本本土への復帰運動を背景に結成されるなど政治的組織として機能してきたという特徴がある。現在では本土に居住する沖縄県出身者および各種団体の名称、氏名(代表者)、住所登録や管理などを行い、個人データの一部は沖縄県庁とも共有している。他にも、このような沖縄系コミュニティから派生した、出身地ごとに組織される模合(相互扶助的な金融組織)や同窓会といった団体もある。
 既存研究の多くは、このような沖縄系コミュニティを分析対象とし、本土における「沖縄」や「沖縄人」像を描いてきた傾向にある。一方で、沖縄県出身者が結成するコミュニティは、必ずしも県人会や郷友会といった組織に限られるわけではない。例えば、年数回、出身地で行われる村の儀礼に参加するために加入する祭祀組織や適齢を迎えた者が行う特殊儀礼へ参加するために一時的に組織された同窓団体などもある。さらに、身内の不幸や原因不明の病気、事故や怪我などの災因が解決されない場合に、故郷から霊的職能者を招請し、問題解決を図るための「集まり」などもある。沖縄県人会に所属する個々人が日常的に実践する民俗宗教に着目すると、沖縄県人会に登録されている「沖縄人」は、各種団体に所属するだけでなく、故郷の祭祀組織にも加入し、突発的な集まりにも参加をする。つまり、本土在住の沖縄県出身者は複数の、異なる次元で存在する様々な沖縄系コミュニティに重層的に参加し、コミュニティごとに異なる「沖縄」を表象している。同時に、本土の沖縄系コミュニティには、沖縄本島、宮古・八重山諸島各地の出身者だけでなく、沖縄県出身者の2世や3世、「沖縄ファン」の本土出身者も含まれている。即ち、一つのコミュニティに表象される「沖縄」もまた一様ではなく、同一の「沖縄人」が所属しているわけでも、同一の「沖縄」が表象されているわけでもないといえる。
 以上を踏まえ、本発表では個々人の民俗宗教の日常的実践を通して愛知県の沖縄系コミュニティの「沖縄」表象について考察するものである。

参考文献
愛知の沖縄調査会編2009『愛知の中の沖縄 先人達の足跡を求めてVOL.1』愛知沖縄県人会連合会
大阪人権博物館編『ヤマトゥのなかの沖縄』大阪人権博物館
沖縄県教育委員会編1974『沖縄県史 第7巻 各論編6』沖縄県教育委員会
ジェラード・デランティ著、山之内靖他訳2006『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』
  NTT出版
田辺繁治、松田素二編2002『日常的実践のエスノグラフィ 語り・コミュニティ・アイデンティテ
  ィ』世界思想社
田辺繁治2008『ケアのコミュニティ−北タイのエイズ自助グループが切り開くもの』岩波書店
桃原一彦1997「沖縄を根茎として」奥田道大編『都市エスニシティの社会学民族/文化/共生の意
  味を問う』ミネルヴァ書房
冨山一郎1990『近代日本社会と「沖縄人」』日本経済評論社
牧野眞一2002「沖縄の同郷者集団県人会活動を中心に」松崎憲三編『同郷者集団の民俗学的研究』
  岩田書院
山口覚2008『出郷者たちの都市空間パーソナル・ネットワークと同郷者集団』ミネルヴァ書房



女性の移動としての離婚/再婚
――現代沖縄社会における女性の死後の処遇をめぐる新たな実践の出現――

 首都大学東京大学院・博士後期課程 吉田佳世

 本発表は、沖縄戦以降の沖縄社会における離婚あるいは再婚の増加を、女性の移動の一局面としてとらえ、その結果生じている女性の死後の処遇をめぐる実践を考察することにある。結論を先取りしていえば、本発表では、現代沖縄社会における女性死者に対する新たな弔い方の出現を、「伝統的」な祖先祭祀の「近代化」による変容として記述するのではなく、沖縄戦後の政治的・歴史的過程のなかで、伝統的な祖先祭祀制度の確立と、近代化による祖先祭祀からの逸脱が、同時並行した状況として捉える事を目指したい。
 沖縄における女性の死後の処遇が、日本本土に比して特徴的であることは、先行研究においても着目されてきたことである。たとえば、位牌・墓の祭祀における女位牌(イナググヮンス)の禁や冥界婚(グソーヌニービチ)は、その最も顕著な例であろう。簡単に説明しておけば、女位牌の禁とは、家や位牌を女性が婿養子を迎えるなどして後を継ぐこと、あるいは、女性が家を創設し初代先祖になることを強く忌避する慣行のことである[竹田 1976、萩尾1986]。他方、冥界婚とは、特に離婚を経験した女性や、子ども(特に男児)を産むことができず生家に戻された女性などの位牌や遺骨を、夫婦あるいはそれに準ずる関係にあった男性のもとへ移動させる儀礼のことである[桜井1973]。すなわち、沖縄の祖先祭祀制度において、女性は、結婚して生家を出たうえで、婚家において家や位牌の継承者となる男児を確保することが強く要請されているのである。先行研究においては、沖縄の女性をめぐる特徴的な慣行を、男系血縁を重視する制度との関連で理解されることが一般的であった。しかし、女性の死後の処遇に関しては、依然として疑問も多く残されたままである。それは、本発表のテーマである、離婚や再婚の過程で複数の婚家と目される家とかかわりをもった女性はいかに弔われるのかという疑問ももちろんそのひとつである。
 本発表では、具体的な事例を通じて、離婚や再婚を経験した女性の死後の処遇をめぐる実践を明らかにするとともに、このような実践が生起した背景を、近代化にともなう女性のライフコースの多様化という問題だけでなく、男系血縁原理の伝統化という観点からも考察を加えたい。つまり、男系血縁原理が沖縄戦後の歴史的・経済的状況によって強化された帰結として、女性の死後の処遇をめぐる多様な実践が生起したという考え方である。それを通じて先行研究上の問題点である、非歴史的・固定的表象を修正するとともに、近代化が、当該地域やそこに暮らす人びとに非均質的な影響を与えているという実態を明らかにしていきたい。

     参考文献
桜井徳太郎1973『沖縄のシャーマニズム――民間巫女の生態と機能――』。
竹田 旦 1976「祖先祭祀――とくに位牌祭祀について」九学会連合沖縄調査委員会(編)『沖縄――自然・文化・社会』pp.165-180.弘文堂。
萩尾俊章 1986「位牌祭祀と禁忌――沖縄本島中部における事例研究」『沖縄民俗研究』6:21-33