2015年3月19日木曜日

第27回まるはち人類学研究会「出家」とはなにか:タイとミャンマーの比較民族誌的研究

 陽春の候、皆様風邪など召されずにお過ごしでしょうか。第27回まるはち人類学研究会の詳細が決定しました。お忙しいと時期は思いますが、皆様に会場でお目にかかれますことを楽しみにしております。
 
中部人類学談話会第229回例会、第27回まるはち人類学研究会合同企画
「出家」とはなにか:タイとミャンマーの比較民族誌的研究

主催:日本文化人類学会中部地区研究懇談会、まるはち人類学研究会
日時:201545日(日)13:3017:00
会場:南山大学 R R31号室

<プログラム>
13:30-13:45
 趣旨説明 藏本龍介(南山大学)
13:45-14:35
 岡部真由美(中京大学)
      「出家者による世俗への接近:
       現代タイ社会における上座仏教僧の「開発」からみた僧俗
             の境界をめぐって」
14:35-15:25
 藏本龍介(南山大学)
            「現代ミャンマー社会における『出家』の挑戦:
             贈与をめぐる出家者/在家者関係の動態」
15:25-15:40
 結論・考察(岡部、藏本)
15:40-16:00
 休憩
16:00-16:15
 コメント 速水洋子(京都大学)
16:15-16:30
 コメント 石森大知(武蔵大学)
16:30-17:00 総合討論

<企画趣旨>
 
「出家」とはなにか:タイとミャンマーの比較民族誌的研究

 「出家」とはなにか。出家者として生きるとはどういうことか。本企画ではこの問題について、現代タイとミャンマー(ビルマ)を事例として検討する。上座仏教の出家生活は、潜在的なジレンマを抱えている。つまり一方で、「出家」という言葉が含意しているとおり、出家生活は家(社会)から離れることを重要な前提としている。その一方で、出家生活は世俗社会に深く埋め込まれている。なぜなら出家者は社会からの物質的支援なしには生きられないからである。それでは実際に出家者は、社会とどのように関わっているのか。
  実はこの問題は、先行研究において大きな盲点となっている。人類学的な仏教研究の特徴は、たとえばE.リーチによる「実践宗教(practical religion)」という概念に鮮やかに示されている。つまりリーチによれば、確立した教義をもつ制度宗教(キリスト教、イスラーム、仏教など)を対象とした研究は、文献学的な教義研究に偏っている。しかし実際に実践されている宗教(実践宗教)は、教義としての宗教、つまり「哲学宗教(philosophical religion)」と大きく異なるとし、「一般信徒(ordinary churchgoer)」の生活の中に、現に生きている宗教を研究対象とするべきであると提唱した(Leach ed. 1968)。
  教義ではなく、実践を研究する。いいかえれば、仏教徒の生き方を研究する。これが人類学的な仏教研究の重要な特徴の一つであるといってよい。ただしこうした文脈においては一般信徒である在家者の、教義とは異質な、あるいは新しく動態的な仏教実践に焦点があたる一方、宗教的専門家である出家者は、それゆえに教義仏教の担い手とみなされ、周縁化されるという傾向を生んでいる。出家者はいわば教義に規定された存在であり、その実践は仏教学の成果を参照すれば事足りるというわけである。
  もちろん、出家者についての言及がないわけではない。たとえば初期(19601970年代)の研究では、村落レベルや国家レベルにおける出家者の役割が分析された(石井 1975; Bechert 1967-1973; Gombrich 1971; Spiro 1970; Tambiah 1970, 1976など)。またM.カリサースやS.タンバイアは、出家生活の現実態を、<土着化(出家者が社会と共生関係を取り結ぶこと)⇔原理主義的改革(それに反発して「出家」の理想を追求する動き)>、あるいは<村・町の僧(社会の中心を担う僧)⇔森の僧(社会から離れる僧)>の往還として整理している(Carrithers 1983; Tambiah 1984)。さらに1980年代半ば以降は、出家生活を社会変動や地域的固有性といったコンテクストから捉えようとする研究が現れている(Gombrich & Obeyesekere 1988; 田辺編 1993, 1995; 林編 2009など)。その他、出家生活の民族誌と呼びうるような成果も例外的ながら存在している(生野 1975, 青木 1979など)。
  しかしこれらの議論は、出家者をいわば社会の側から捉えようとするものであり、ほかならぬ出家者自身が、社会との関係をいかに捉え、どのように関わろうとしているのか、といった諸点を十分に問題化できていない。出家生活の現実態を把握するためには、出家者と社会の関係を、構造的なパターンや時代的・地域的なコンテクストに解消してしまうのではなく、出家者自身の視点から捉え返す必要がある。そこで本企画では、現代のタイとミャンマー(ビルマ)を事例として、対照的な出家生活の実態を民族誌的に描写する。それによってタイおよびミャンマー社会を逆照射すると同時に、社会との関係を不断に微調整し続けることによって維持・変化し続ける「出家」という運動の内実を明らかにすることを目的としている。こうした作業を通じて、人類学的な制度宗教研究の新たな可能性を模索したい(cf. 岡部 2014; 藏本 2014)。

参照文献
青木保
 1976 『タイの僧院にて』中央公論社。
生野善應
 1975 『ビルマ仏教:その実態と修行』大蔵出版。
岡部真由美
 2014 『「開発」を生きる仏教僧:タイにおける開発言説と宗教実践の民族誌的研究』風
    響社。
藏本龍介
 2014 『世俗を生きる出家者たち:上座仏教徒社会ミャンマーにおける出家生活の
    民族誌』法藏館。
田辺繁治(編)
 1993 『実践宗教の人類学:上座部仏教の世界』京都大学学術出版会。
 1995 『アジアにおける宗教の再生:宗教的経験のポリティクス』京都大学学術出版会。
林行夫(編)
 2009 『<境域>の実践宗教:大陸部東南アジア地域と宗教のトポロジー』京都大学学術
    出版会。
Bechert, Heinz
 1966-1973 Buddhismus, staat und gesellschaft in den ländern des Theravāda-Buddhismus.
       3 vols. Frankfurt a. M.; Berlin: Metzner.
Carrithers, Michael
 1983 The forest monks of Sri Lanka: an anthropological and historical study. Oxford:
      Oxford University Press.
Gombrich, Richard F.
 1971 Buddhist precept and practice: traditional Buddhism in the rural highlands of Ceylon.
    Delhi: Motilal Banarsidass Publishers.
Gombrich, Richard & Gananath Obeyesekere
 1988  Buddhism transformed: religious change in Sri Lanka. Princeton, N.J.: Princeton University
     Press.
Leach, Edmund R. (ed.)
 1968 Dialectic in practical religion. Cambridge papers in social anthropology Vol.5. Cambridge:
                Cambridge University Press.
Spiro, Melford E.
 1970 Buddhism and society: a great tradition and its Burmese vicissitudes. New York: Harper &
                Row.
Tambiah, Stanley Jeyaraja
 1970 Buddhism and the spirit cults in Northeast Thailand. Cambridge: Cambridge University
                Press.
 1976 World conqueror and world renouncer: a study of Buddhism and polity in Thailand against
                a historical background. Cambridge: Cambridge University Press.
    1984 The Buddhist saints of the forest and the cult of amulets: a study in charisma, hagiography,
                sectarianism, and Millennial Buddhism. Cambridge: Cambridge University Press.


出家者による世俗への接近:
現代タイ社会における上座仏教僧の「開発」からみた僧俗の境界をめぐって
岡部真由美(中京大学)

 本発表の目的は、現代タイ社会において積極的に現実的課題に取り組む上座仏教の僧侶を対象として、出家者がいかに社会と関わっているのかを明らかにすることである。
 近年、タイ社会においては一部の僧侶たちが、急速な社会変動のなかで新たに生じた貧困、エイズや環境破壊などの諸課題に取り組むようになっている。しかし興味深いのは、こうした僧侶たちのあいだには、たとえば「社会のために働かなければならない」という語りが端的に示すように、自ら積極的に世俗に接近しようとする志向が見出されることである。
 上座仏教の僧侶は、仏典学習と瞑想実践に勤しみ、究極的には涅槃に到達することを目標とする出家者であるが、現実の出家生活は社会に深く埋め込まれている。なぜなら出家は、社会からの物質的支援すなわち布施を前提として成り立つからである。上座仏教社会の民族誌的研究が明らかにしてきたのは、出家者が、宗教職能者としてじつに多様な社会的役割を果たし、布施を介して在家者とのあいだに互恵的関係を結んできたことであった。であるとするならば、なぜ今、出家者である僧侶が積極的に世俗への接近を志向するのか。この点が本発表における問いである。
 この問いに対して本発表は、タイ北部最大の都市チェンマイ近郊部において約40年間にわたり、さまざまな現実的課題に取り組んできたD寺僧侶たちに着目し、彼らがいかに社会と関わってきたのかを民族誌的に描出する。その際、先行研究において等閑視されてきた出家者の視点に立ち、特定の社会的コンテクストのなかで僧俗の境界が編成される過程を動態的に捉えることを試みる(c.f. アサド 2006)。
 本発表の検討が明らかにするのは、現代タイ社会において、僧侶は世俗への接近を実現するために、政府や国内外NGOの開発言説の生産に巻き込まれつつも、それを利用した独自の「開発」に取り組んでいることである(岡部 2014)。その背景には、「社会的な」領域での在家者との関係が希薄化しつつ地域コミュニティにおいて、僧侶は「開発」をとおして在家者に返礼する義務がある、との考えがみられる。しかし事例が示すように、「森の僧」が菜食や瞑想などの禁欲的実践によってカリスマ性を獲得することとは対照的に、世俗に接近するという志向は、出家の根幹を揺るがしかねない危険を常にはらんでいる。にもかかわらず一部の僧侶が積極的に世俗に接近するのは、一方で「開発」をとおして「慈悲深さ」や「徳の高さ」を源泉とする威信を獲得するためであり、また他方で地域コミュニティを越えて形成されるネットワークをとおして、より広範な社会との関わりを可能にするためなのである。
 本発表は、現代タイ社会において世俗への接近を志向する出家者に着眼し、出家生活の多様な現実態の一面を明らかにすることで、出家の営みを「運動」として理解する本企画の主題にアプローチするものである。

参照文献
アサド、タラル
 2006 『世俗の形成:キリスト教、イスラム、近代』中村圭志()、みすず書房。
岡部真由美
 2014 『「開発」を生きる仏教僧:タイにおける開発言説と宗教実践の民族誌的研究』
    風響社。


現代ミャンマー社会における「出家」の挑戦:贈与をめぐる出家者/在家者関係の動態
藏本龍介(南山大学)

 上座仏教の出家者は、律と呼ばれるルールによって、一切の経済活動・生産活動を禁じられている。したがって、物質的な生活基盤を在家者からの布施に依拠する乞食(こつじき)というあり方が、出家生活の大原則となっている。そしてこうした生活を送ることが、上座仏教の理想的な境地である涅槃(無執着)を実現するための、唯一ではないが最適な手段であるとされている。
 しかしM. モースの『贈与論』(Mauss 1950)に依拠するならば、こうした生活スタイルは、「出家」の理想を掘り崩すものである。なぜなら出家者は布施を受け取ることによって、社会に対して負債を負うことになるからである。その負債を返済するならば社会との連帯を強めることになり、逆に負債を返済しないならば社会に従属することになる。いずれにしても、出家者は社会に組み込まれ、「出家」の理想から逸脱せざるをえない。実際、上座仏教徒社会の民族誌が明らかにしているのは、社会との贈与交換関係に組み込まれた出家者の姿である。
 それでは「出家」という生き方は、不可能なものなのか。いいかえれば、<世俗=贈与交換の世界>を超えることは可能なのか。この問題を明らかにするためには、出家者の視点から社会との関係を捉え直す必要がある。そこで本発表では、ミャンマーのX僧院を事例として、「出家」を目指す試行錯誤とその帰結を分析する。
 本発表の検討によって明らかになるのは、こうした「出家」の挑戦は、徹底した社会逃避的な態度として現れているということである。それは「森」に住むという空間的な分離だけにとどまらず、在家者と贈与交換関係を取り結ぶことを回避しようとする諸工夫として観察できる。そしてそれによって「出家」を実現することこそが、出家者だけでなく在家者をも利することになるという独特の布教観がみられる。そして現状では、こうした<出家=布教>の挑戦は、仏教に目覚めた都市住民との結びつきにおいて、成功していることを示す。しかしこの成功は、X僧院の活動についてまわる①経済的リスクと②崇拝対象となるリスクという、本来的に二律背反的な二つのリスクの上に実現している、極めて不確かな成功でもある。本発表ではこうした出家者と在家者の動態的な関係を、出家者の視点から民族誌的に描写する。こうした作業を通じて、本企画のテーマである「出家」という運動の内実に迫る一助としたい。なお、本発表は藏本(2014)に依拠している。

参照文献
藏本龍介
  2014 「上座仏教徒社会ミャンマーにおける「出家」の挑戦:贈与をめぐる出家者/
          在家者関係の動態」『文化人類学』784: 492-514
Mauss, Marcel
 1950  Sociologie et anthropologie. Paris : Presses universitaires de France.

2015年3月3日火曜日

第26回まるはち人類学研究会 『刀を愛でる者たちの「世界」―感じることと社会文化の形成の民族誌的検討―』

  陽春の候、皆様風邪など召されずにお過ごしでしょうか。第26回まるはち人類学研究会の詳細が決定しました。お忙しいと時期は思いますが、皆様に会場でお目にかかれますことを楽しみにしております。

主催日本文化人類学会中部地区研究懇談会、まるはち人類学研究会
日時2015314 14001700(終了後に懇親会あり)
場所南山大学人類学研究所1階会議室研究所管理責任者 後藤明)
     (http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html

プログラム
14:00-14:05 趣旨説明
14:05-15:05 発表者:青木啓将(早稲田大学)
15:05-15:20 休憩
15:20-15:40 コメント 濱田琢司(南山大学)
15:40-16:00 コメント 大村敬一(大阪大学)
16:00-16:15 休憩
16:15-17:00 質疑応答

刀を愛でる者たちの「世界」感じることと社会文化の形成の民族誌的検討
青木啓将

 本発表は、感じることと社会・文化形成、より具体的には、モノを作り使う技術、価値・意味付与、そして、それらに伴う社会関係との関係を、現代の日本刀の生産・流通・享受を事例に検討する。
  感性の歴史(人類)学で著名なアラン・コルバンによれば、19世紀の西洋人は、社会を観察するとき、「感覚を取りまく環境の分析や感覚機能の様態の記述」[コルバン1993283を重視する。これは、現代の日本の人びとに対してもあてはまるだろう。「分析」とはいかないまでも、私たちは日常の生活を送るなかで、何かしら感じ、またそれがどのような状況によるものであったのか思い返し、語り、書き残すことがあるのではないだろうか。コルバンは、こうした個々人が感じること本発表ではそれを感覚と感性と言い換えたいの社会・文化形成に及ぼす力に焦点を当て、言葉で綴られ、あるいは語られる制度、観念のみでは捉えきれない社会の側面を、語られない、あるいは語ることの困難な感覚・感性に求めるのである。
  また、感覚・感性が均衡ないし、統制されることにも注意が必要である。コルバンは、感覚の均衡が社会の階層化を基礎付け、序列を設定し、正当化するとも指摘している[コルバン1993284]。こうした感覚、感性の均衡における政治性に関する考察は、近代日本の感覚、感性を扱う坪井秀人の研究にもみられる[坪井2006[1]
  文化人類学においても、感性に接近する研究が、西洋美学主に、バウムガルテンやカントと、アルフレッド・ジェルの「芸術」の人類学的研究[Gell1998]を経由し、示唆されている[佐々木2008]。ジェルの提唱する芸術の人類学は、「芸術」作品と人が対峙する局面から、芸術の美的価値・意味ではなく、芸術が社会関係など、社会的に与える影響の考察を主眼におく。また、非西洋の「芸術」なるものを扱ってきたことを踏まえ、モノ一般から芸術作品を捉え返す可能性も拓いている[Gell1998]。個々にみられるモノと人の対峙に視点をおきつつ、複数の対峙の組織化を検討することで、そこに潜む政治性と創造的な発想を捉えることもできるのではないかと考える。
  本発表では、さしあたりこのジェルの芸術論にいくぶんの修正を加えたものを足がかりに、現代の日本刀の生産・流通・享受と、人びとの刀に対する感じることを検討したい。
  以下では、本発表が取り上げる日本刀と、その生産・流通・享受に関する検討の道筋を示しておきたい。
  日本の歴史、サムライ、「伝統工芸」など、〈日本〉の象徴ともみられる日本刀が、今なお残されていることは、よく知られていよう。国宝・重要文化財に指定される刀も少なくない。
  博物館展示された刀を前に、刀にさほど明るくないように見える人びとであっても、刀の象徴する歴史、また、形状、刃、鉄模様など、物理的状態に対して、何かしらの感想を語る者たちもみかける。
  とはいえ、実際に刀を手に取り、さらには、所有するに至る者は決して多くあるまい。刀は、現代日本社会において、一般的には必要とされないものである。また刀には、生理的な感性を呼び起こす「恐さ」も潜んでいる。個人差こそあるが、ガラスケース越しにならまだしも、実際に手に取ることに対しては抵抗感、ないし拒絶感を覚える者もいないではない。
  ただ一方で、現代においてもなお、刀は作られ、流通し、享受され続けている。主に、芸術品として、武道具として、また、守護・破邪を祈念するモノ(「守り刀」)として取引される。刀を長年蒐集する愛好者もいる。愛好者や武道家たちは、刀の鑑賞美や実用性に対してこだわりをみせる。彼らが語る「守り刀の掟」なるものもある。また、「作ったからといって売れる物ではない」現状を承知してもなお、刀作りを志す者たちがいる。日本刀は、いまや嗜好品にも似た、趣味、あるいは、信念の産物だといってもよい。
  つまり、日本刀は、一方では「伝統」、他方では「美」を体現するものとして、歴史的には武器としての要件を満たすものとして、製作されてきた。このような刀に対する感じ方の差異が、刀の生産・流通・享受へ与える影響を探るため、一部の製作者と愛好者の「刀の世界」という謂いを足がかりに、まず、この「世界」への進入を試みる。「刀の世界」とは、端的に言えば、長年にわたり、刀を愛でてきた者たちの集う場を指している。彼らは、情熱的に、刀を作り、売り、鑑賞し、使う。日本刀の愛好者による刀の鑑賞では、刀から読み取れる物理的な特徴を参照枠として、作者の特定が行われている。こうした物理的特徴は独特の言語表現によって語られ、この言語表現には鑑賞美、実用性の基準が持ち込まれている。刀の物理的な特徴を表す言語表現には、「どこかこうあらねばならぬというもの」、つまり、逸脱し難いものとみなされる規範がある。こうした規範をもとに、ある種のアート・ワールドともいえる「刀の世界」が成立している。刀の物理的な特徴とそれを読み取り表現する感性が、「刀の世界」における刀の生産、流通、享受の環を構成している。
  こうした「刀の世界」のウチとソトの越境を通して、刀に対する感じ方の違いが「刀の世界」のウチとソトの境界を作りつつ、刀の生産・流通・享受を循環させていることがみえてくる。


[1]成田龍一は、坪井の『感覚の近代』に、コルバンら感性の歴史をめぐる歴史学を呼び込んでいる[成田2006]。

参照文献
コルバン、A
 1993 『時間・欲望・恐怖歴史学と感覚の人類学』藤原書店。
佐々木重洋
 2008 「感性という領域への接近」『文化人類学』732):200-220
坪井秀人
 2006 『感覚の近代』名古屋大学出版会。
成田龍一
 2006 「坪井秀人『感覚の近代』、あるいは感性の歴史研究について」『UP
         358)、49-54
Gell, A
1998 Art and Agency, Oxford University Press.