2015年3月3日火曜日

第26回まるはち人類学研究会 『刀を愛でる者たちの「世界」―感じることと社会文化の形成の民族誌的検討―』

  陽春の候、皆様風邪など召されずにお過ごしでしょうか。第26回まるはち人類学研究会の詳細が決定しました。お忙しいと時期は思いますが、皆様に会場でお目にかかれますことを楽しみにしております。

主催日本文化人類学会中部地区研究懇談会、まるはち人類学研究会
日時2015314 14001700(終了後に懇親会あり)
場所南山大学人類学研究所1階会議室研究所管理責任者 後藤明)
     (http://www.nanzan-u.ac.jp/JINRUIKEN/index.html

プログラム
14:00-14:05 趣旨説明
14:05-15:05 発表者:青木啓将(早稲田大学)
15:05-15:20 休憩
15:20-15:40 コメント 濱田琢司(南山大学)
15:40-16:00 コメント 大村敬一(大阪大学)
16:00-16:15 休憩
16:15-17:00 質疑応答

刀を愛でる者たちの「世界」感じることと社会文化の形成の民族誌的検討
青木啓将

 本発表は、感じることと社会・文化形成、より具体的には、モノを作り使う技術、価値・意味付与、そして、それらに伴う社会関係との関係を、現代の日本刀の生産・流通・享受を事例に検討する。
  感性の歴史(人類)学で著名なアラン・コルバンによれば、19世紀の西洋人は、社会を観察するとき、「感覚を取りまく環境の分析や感覚機能の様態の記述」[コルバン1993283を重視する。これは、現代の日本の人びとに対してもあてはまるだろう。「分析」とはいかないまでも、私たちは日常の生活を送るなかで、何かしら感じ、またそれがどのような状況によるものであったのか思い返し、語り、書き残すことがあるのではないだろうか。コルバンは、こうした個々人が感じること本発表ではそれを感覚と感性と言い換えたいの社会・文化形成に及ぼす力に焦点を当て、言葉で綴られ、あるいは語られる制度、観念のみでは捉えきれない社会の側面を、語られない、あるいは語ることの困難な感覚・感性に求めるのである。
  また、感覚・感性が均衡ないし、統制されることにも注意が必要である。コルバンは、感覚の均衡が社会の階層化を基礎付け、序列を設定し、正当化するとも指摘している[コルバン1993284]。こうした感覚、感性の均衡における政治性に関する考察は、近代日本の感覚、感性を扱う坪井秀人の研究にもみられる[坪井2006[1]
  文化人類学においても、感性に接近する研究が、西洋美学主に、バウムガルテンやカントと、アルフレッド・ジェルの「芸術」の人類学的研究[Gell1998]を経由し、示唆されている[佐々木2008]。ジェルの提唱する芸術の人類学は、「芸術」作品と人が対峙する局面から、芸術の美的価値・意味ではなく、芸術が社会関係など、社会的に与える影響の考察を主眼におく。また、非西洋の「芸術」なるものを扱ってきたことを踏まえ、モノ一般から芸術作品を捉え返す可能性も拓いている[Gell1998]。個々にみられるモノと人の対峙に視点をおきつつ、複数の対峙の組織化を検討することで、そこに潜む政治性と創造的な発想を捉えることもできるのではないかと考える。
  本発表では、さしあたりこのジェルの芸術論にいくぶんの修正を加えたものを足がかりに、現代の日本刀の生産・流通・享受と、人びとの刀に対する感じることを検討したい。
  以下では、本発表が取り上げる日本刀と、その生産・流通・享受に関する検討の道筋を示しておきたい。
  日本の歴史、サムライ、「伝統工芸」など、〈日本〉の象徴ともみられる日本刀が、今なお残されていることは、よく知られていよう。国宝・重要文化財に指定される刀も少なくない。
  博物館展示された刀を前に、刀にさほど明るくないように見える人びとであっても、刀の象徴する歴史、また、形状、刃、鉄模様など、物理的状態に対して、何かしらの感想を語る者たちもみかける。
  とはいえ、実際に刀を手に取り、さらには、所有するに至る者は決して多くあるまい。刀は、現代日本社会において、一般的には必要とされないものである。また刀には、生理的な感性を呼び起こす「恐さ」も潜んでいる。個人差こそあるが、ガラスケース越しにならまだしも、実際に手に取ることに対しては抵抗感、ないし拒絶感を覚える者もいないではない。
  ただ一方で、現代においてもなお、刀は作られ、流通し、享受され続けている。主に、芸術品として、武道具として、また、守護・破邪を祈念するモノ(「守り刀」)として取引される。刀を長年蒐集する愛好者もいる。愛好者や武道家たちは、刀の鑑賞美や実用性に対してこだわりをみせる。彼らが語る「守り刀の掟」なるものもある。また、「作ったからといって売れる物ではない」現状を承知してもなお、刀作りを志す者たちがいる。日本刀は、いまや嗜好品にも似た、趣味、あるいは、信念の産物だといってもよい。
  つまり、日本刀は、一方では「伝統」、他方では「美」を体現するものとして、歴史的には武器としての要件を満たすものとして、製作されてきた。このような刀に対する感じ方の差異が、刀の生産・流通・享受へ与える影響を探るため、一部の製作者と愛好者の「刀の世界」という謂いを足がかりに、まず、この「世界」への進入を試みる。「刀の世界」とは、端的に言えば、長年にわたり、刀を愛でてきた者たちの集う場を指している。彼らは、情熱的に、刀を作り、売り、鑑賞し、使う。日本刀の愛好者による刀の鑑賞では、刀から読み取れる物理的な特徴を参照枠として、作者の特定が行われている。こうした物理的特徴は独特の言語表現によって語られ、この言語表現には鑑賞美、実用性の基準が持ち込まれている。刀の物理的な特徴を表す言語表現には、「どこかこうあらねばならぬというもの」、つまり、逸脱し難いものとみなされる規範がある。こうした規範をもとに、ある種のアート・ワールドともいえる「刀の世界」が成立している。刀の物理的な特徴とそれを読み取り表現する感性が、「刀の世界」における刀の生産、流通、享受の環を構成している。
  こうした「刀の世界」のウチとソトの越境を通して、刀に対する感じ方の違いが「刀の世界」のウチとソトの境界を作りつつ、刀の生産・流通・享受を循環させていることがみえてくる。


[1]成田龍一は、坪井の『感覚の近代』に、コルバンら感性の歴史をめぐる歴史学を呼び込んでいる[成田2006]。

参照文献
コルバン、A
 1993 『時間・欲望・恐怖歴史学と感覚の人類学』藤原書店。
佐々木重洋
 2008 「感性という領域への接近」『文化人類学』732):200-220
坪井秀人
 2006 『感覚の近代』名古屋大学出版会。
成田龍一
 2006 「坪井秀人『感覚の近代』、あるいは感性の歴史研究について」『UP
         358)、49-54
Gell, A
1998 Art and Agency, Oxford University Press.